2020/01/10背景変更 裕次郎灯台

明治大学考古学の生みの親は逗子市小坪生まれです

 明大OBで一色に住んでおられる古要祐慶さんから「湘南考古学同好会々報142」をお送りいただきました。古要さんからはほぼ継続して記事を送っていただいていますが、今回は“前方後円墳の起源を求めて”と題して3回目の寄稿でした。中国の古い時代から日本の古墳時代の話を掘り下げた内容のためここでは触れませんが、「前方後円墳」と「明治大学考古学」について記してみます。 

 平成11年3月と4月に逗子市と葉山町の境界で大型の前方後円墳1号と2号が発見されて市民町民はじめ近隣住民に「考古学のロマン」を感じさせられたのは誰もが思い出されるでしょう。逗葉地区では古墳時代前期の遺跡発見はあっても古墳は初めてでした。あれから17年経ちますが、思い返すと葉山桜山団地西側の山頂で携帯電話の中継所建設工事に伴う樹木の伐採が行われたのがきっかけだったと思います。

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 近くに住む考古学愛好家の東谷洋之助さんが以前から前方後円墳ではないかと思っておられたので地元教育委員会を通じ県教育委員会に調査を依頼することとなり、その現地調査結果、前方後円墳であることが確認されました。2号も田村良照氏により発見され(財)かながわ考古学財団の試掘調査結果によると出土した壺形埴輪の破片等により4世紀後半(西暦350年~400年)に築かれたものとのことでした。2号古墳は明確な葺石を伴っていて県下最大(直径90m)はもとより県下前期古墳では初めての発見でした。

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 発見当時は明治大学考古学の大塚初重名誉教授が良く来られていて、古要さんは教授と頻繁に連絡をとっておられました。また明大OBの梅沢重明元群馬大学教授や水野正好奈良大学教授も来られていました。広大な農業生産地を背後に持たないのに何故前方後円墳が築かれたのか、前方後円墳がある富山県氷見市と同様に海運を支配した大和朝廷と関係が深い豪族が逗葉地区にいたのか等、多くの意見が出ていました。当時古要さんから古逗子湾と古長浦湾の陸橋は1.9~2.0㎞しかなく、東京湾の奥の丸木舟運航者は海難を恐れて南下したがらなかったため古逗子湾と田越川の役割は測り知れなかったのではと教えていただきました。中国大陸や朝鮮半島で建造された大型外洋構造船が相模湾から古逗子湾にも姿を見せるようになったわけです。以前、船津さん(現・名誉支部長)から逗子市と氷見市は何故かロータリー倶楽部で交流があったと聞いたことがあります。

 住民の関心が薄れる中にも保存を念頭に、国史跡指定、指定地の公有化、調査と学術的検証はすすめら今も発掘の準備がされています。

 この間、平成17年6月に逗子海岸に面するカンティーナ2階で総会を開催した際に、古要祐慶さんと東谷洋之助さんに「長柄桜山古墳群について」と題し記念講演をしていただいたこともありました。 

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 日本の歴史において馬や牛がいなかったと思われる邪馬台国や奴国は3世紀末に消息を絶ち、その後の4世紀の日本については中国の歴史にも登場しないので「謎の4世紀」と言われています。このあと馬具や埋葬した馬の骨が大量に出土するようになったので4世紀に朝鮮半島から騎馬軍団が到来して大和朝廷誕生の大きな動きがあったとする見方もあります。北朝鮮でも前方後円墳は発見されていて日本より300年程古いとのことです。日本で前方後円墳が作られたのは3世紀末から6世紀末までで東北地方から南九州まででと言われるなか、逗葉の前方後円墳が4世紀末という早い時代に作られたことは、古墳時代を中心に研究される大塚名誉教授にとって最大関心事だったと思われます。三浦半島では逗葉の古墳が発見される前は横須賀市長沢の熊野神社脇の円墳が最古で5世紀中頃とされていました。

 明治大学文学部考古学専攻は、1950年(昭和25年)に明治大学考古学研究室として創立しました。私立大学では初めてでした。創立者は後藤守一(しゅいち)氏で1888年(明治21年)鎌倉郡小坪村(現逗子市小坪)に生まれています。明治20年頃、当時小坪寺にあった鷺浦小学校(現小坪小学校)の校長として着任した後藤啓蔵氏の子として生まれたのです。明治22年に小坪(新宿を含む)、逗子、久木、山の根、池子、沼間、桜山が一緒になり三浦郡田越村となったので小坪は鎌倉から離れました。大塚初重名誉教授は教え子にあたり、以前古要さんからこの話を聞き、小坪で亡くなり墓も小坪の寺にあるようなことを耳にしたので、明治の考古学の創立者が逗子で生まれ 逗子に眠っているなら前方後円墳もありこれは大変なことだと思い、小坪の小坪寺(しょうへいじ・浄土宗)、正覚寺(浄土宗)、海前寺(時宗)、佛乗院(真言宗)を訪ねて後藤守一氏の墓を探したこともありました。住職に聞いても該当者無しということでしたが、小坪寺のすぐ下の草むらに日蓮宗の墓が幾つかあり、小坪寺は火災で焼失した報身院(浄土宗)と香蔵寺(?宗)が明治40年に合わせて再建されたので、ひょっとして廃止になった香蔵寺に墓があったのではとのロマンで終わっています。小坪には廃寺になった養生院という寺もあったそうでした。

 しかし後藤守一氏は小坪生まれには違いなく古要さんも住所を役所で調べられたが判らなかったとのことでした。亡くなられたのは小坪ではなく東京との情報もありますが場所は確認できていません。

 なお古要さんから次のような示唆もいただいています。「後藤啓蔵氏が校長として着任された頃は横須賀線が未開通だったので多分東海道線藤沢駅で下車し、近くを流れ柏尾川の水運を利用し船で河口の江ノ島近くまで行き、そこから三崎行の定期船に乗って小坪海岸で下船され着任されたと考えています。明治23年頃移動で小坪を離任される際は横須賀線が開通していたので小坪から船で田越川の逗子駅近くまで行き、そこで下船し逗子駅から横須賀線に乗られたと考えています。」とのことです。

 現在、後藤守一氏の墓は静岡県沼津市香貫山塩満寺(日蓮宗)にあり、小坪で生まれ沼津中学で学び東京高等師範を卒業、明治大学教授となり東京?で亡くなり沼津に眠っています。沼津の塩満寺は後藤守一氏のご先祖が出資者となり建立した寺とのことでした。大塚初重氏や古要さんも幾度かこの寺にお参りをされたとの手紙の添書きもありました。

 逗子葉山の明大卒業生の方には、明治大学考古学の創立者が逗子市小坪で生まれということもあり「考古学と前方後円墳」により関心を持っていただけたらと思い、このブログに掲載することにしました。         

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