2020/01/10背景変更 裕次郎灯台

大塚初重明治大学名誉教授の訃報を知って

 令和4年7月23日の読売新聞朝刊で大塚初重さんが21日肺炎により95歳で亡くなった記事を見ました。

 日本考古学会協会長を歴任された考古学界の重鎮で、東京生まれで専門は弥生、古墳時代。私が小学校の頃習った静岡県登呂遺跡の戦後初めての大規模な発掘調査に参加されておられたことや、その後の東日本の古墳を中心に数多くの発掘を手掛けられたことも紹介されてありました。一時期考古学ブームを引っ張り平成19年には五木寛之さんとの共著「弱き物の生き方」で戦時中に海軍軍人として乗った船が撃沈されて九死に一生を得た体験を明かされたことも記事にありました。

 当校友会会員に葉山に住む古要祐慶先輩(S34年文卒、S36年政経卒)がおられましたが、文学部在籍中は大塚初重さんの後輩で、長柄桜山古墳が発見された時は、大塚さんに情報をいち早く報告されていたそうです。平成17年のカンティーナで開催した当支部総会の折には「長柄桜山古墳群について」と題して古要さんに記念講演をお願いし、当日は発見者でもある東家洋之介さんも参加され補足説明をしていただきました。古要さんは湘南考古学同好会に入っておられ機関誌の会報に「前方後円墳の起源を求めて」等の題名で幾度か投稿され、この会報は私にも送られてきていました。

 振り返ると、この平地の少ない逗子葉山の地に前方後円墳に納められる大王が存在していたこと自体、発見当時は大変な出来事で、大塚初重教授や古要祐慶先輩を連想して記憶に鮮明に残っています。古い出来事ではありますが明大の仲間と古墳について語った記録があるので付して大塚初重さんを偲びたいと思います。 合掌。



長柄・桜山古墳のこと

 

魏々タリ蕩々タリ、観世音菩薩欣仰 日ニ合掌怠ラザル所、慈愛及ビテ逗葉ノ地ニ達シ紫雲棚引ク中ニ前方後円墳現出ノ奇瑞ヲ垂レ給フ、有難キ哉 伏シテ願ハクバ普ク八紘ニ余光輝ヤカセテ昔日ノ栄華ヲ万人ニ及ボシメ給ハン事ヲ 即チ未ダ仏心有ル無キ輩、一紙半銭ノ古墳供養ヲ奉リテ庵主ノ仏恩ニアヤカラレヨ

 

朝茶 長柄・桜山古墳奉讃席

と き 平成十二年七月三十日(日) 午前三時

ところ 逗子高畠 仙六洞(亀ヶ岡八幡宮ヨコ入ル)

かいひ 三百円

勝手乍ら前日正午迄にご来駕の趣お申し越し下さい   

奉行 足立游庵

 

これは逗葉駿台会茶友の記録の一齣である。朝の空が白む前のわずかな時、茶友が斜門破屋の我家を訪れた。玄関前には信州武石村(吉岡恒樹さんの山荘のある青木村は丸子温泉をはさんで山一つ北側にある)にある日本唯一の「ともし火博物館」で買った燭台に火をともし、席には明治大学に来由する幾多の物を出しておいた。床の間には三木武夫を総理に押した椎名裁定でしられる椎名悦三郎の書「風吹不動天辺月」を掛け、床柱には石川裕昭さんの叙勲祝いの花入れに紫紺の朝顔を生け、その下に馬場香澄さんから頂いた鎌倉彫の書状入れに古要祐慶さんからの古墳に関する手紙を添えて出しておいた。白い風炉先には桜井清志さん撮影の我家で花開いた桜山古墳の黒蘭の写真を無造作に貼り付けておいた。

平成11年3月、長柄・桜山古墳が発見された。4月小林三郎明大教授が調査に訪れ、7月大塚初重明大名誉教授も来逗。9月の逗子市広報では県内最大級の前方後円墳であることが報告されている。平成12年1月古墳見学会が梅沢重昭群馬大名誉教授(明大卒)を講師に実施され、10月7日には大塚初重明大名誉教授の古墳発見記念講演が葉山町福祉会館で開催されることになった。古墳発見者の東家洋之助さんに入場券を5枚依頼し記憶が定かではないが吉田、石渡(璋)、森、砂山さんたちと聞きにいった。東家さんに親しい古要祐慶さんは明大考古学専攻で大塚初重さんの後輩にあたり長柄・桜山古墳のことを詳細に伝えておられた。古要さんの話では明大考古学の生みの親である後藤守一氏は明治22年8月に逗子の小坪で生まれたとの情報を得て小坪寺まで調べに行ったことがあるが確認はできなかった。しかし明治大学の考古学の仲間がこの逗葉地区に結集しているのは事実であり、逗子葉山の議員に古墳への関心が高まり新しい町おこしとして具体的に活動に入っているようだ。森英二幹事長夫人もその1人として加わっている。桜山古墳のある場所が幹事の石渡俊雄さんの土地の一部に入っているのもやはり明治の校友会としては関心を持たざるを得ないので平成15年総会の時は東家さんに記念講演を依頼したが日程上実現されなかった。別の機会に是非呼んで話を聞きたいと思っている。会員の幾人かは以前青森県三内丸山古墳に立ったこともあり、逗葉支部のこれからの10年はこの古墳がキーワードになるような気がする。

茶の席ではロマンが花開く。広い農地を持たない逗葉の地に大王の墳墓があるということはこの地が交通の重要な要所であったことが推察される。大塚初重氏が富山県氷見市前方後円墳との類似を指摘され古墳の築造者が海運に関わる豪族であった可能性を示唆されているため4世紀後半の築造された船の仕様やどのように大和まで行ったのか、行き帰りに何を積んでいったのか、大和以外にも行き先はあったのではなどとロマンが膨らむなか空が明るくなり散会となったのです。

                         逗子高畠仙六洞 庵主