2020/01/10背景変更 裕次郎灯台

故 森 英二氏を偲ぶ “ごみゼロ・ウェイスト” 

 私が逗子市廃棄物減量等推進員になったのは平成28年8月からで任期2年も後を継ぐ人がいないこともあり現在も継続中で令和4年7月まではその任にある。

f:id:meijizuyou:20200812193740j:plain  逗子市環境クリーンセンター

  (六浦に抜ける池子トンネル手前の山頂にある)

 この推進委員は「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」により、『一般廃棄物の減量のための市町村の施策への協力その他の活動を行う』とし、また「逗子市廃棄物の減量化、資源化及び適正処理に関する条例」と「施行細則」により『減量化、資源化、一般廃棄物の適正処理及び地域の清潔の保持に関する市の施策への協力その他の活動を行う』とうたっている。要するところ、ごみステーションの定期的なパトロールを通してごみ分別の指導、及び啓発によりリサイクル化の促進と燃やすごみの減量化を図るボランティアである。市内各家庭に“ごみと資源物の収集カレンダー”が配られているので地区により出す日は異なるが自分の地区のカレンダーに従って朝8時~8時30分に出せば収集車が9時頃には来て回収していくことになっているため通常9時前までに巡回は終えるようにしている。

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 リサイクルごみの紙類、布類、アルミ缶、スチール缶、家庭金物のうちアルミ缶だけは売上としてごみステーションの該当自治会に収入として入金があり、私の属する自治会では平成31年度年間45,000円の収入があった。自治会に割り当てられたこの役を引き受けたのは他に受ける人がいなかったこともあるが、森英二先輩が葉山でごみ減量に特に力を入れていたことも頭にあった。ごみは種類により処理施設が異なり分別されていないごみが入ると処理施設の故障、設備の延命化の弊害になり、燃やすごみの削減は費用の大幅削減になるので、葉山町財政の赤字肥大阻止のため森さんが力を入れていたと思う。ごみ問題はどう処理するかではなく、いかに減らすかが問われている。

 

 7月27日前葉山町長だった森英二当支部顧問の訃報が届いた。当校友会の設立から町長就任まで長年幹事長を務めていただいていたこともあり、追悼の意味を込めて森さんが取り組んだ“ごみゼロ・ウェイスト”について述べてみたい。

 

f:id:meijizuyou:20200812232634j:plain  葉山町クリーンセンター

     (葉山町福祉文化会館の先にある)

f:id:meijizuyou:20200813113357j:plain   葉山浄化センター 

         (逗葉新道料金所近くの山腹の中にある)

 (トンネル方式の「クリーンカプセル下水処理場」で山腹にトンネルを掘削し、その部分に汚水を浄化する水処理施設を収納するようになっている。葉山町は平坦地が少 なく、海岸沿いの狭い平野部は市街地となっており、下水処理場を建設できる平坦地を確保することが困難である。そこで山腹にトンネルを掘削し、汚水を浄化する下水処理施設を収納した。これにより土地の有効利用が図れるだけでなく、においも出さないといった効果がある。一色のそうてつローゼン脇の山頂に一色ポンプ場がある。)

*平成4年に建設大臣の認可を受け平成13度を最終目標年次とする葉山町の公共下水道工事計画(建設費284億円)において平成11年3月長柄に葉山浄化センターの共用をみた。その後この一角に新たな“し尿投入施設設置計画”が作られたが平成25年9月既存の施設活用で費用の大幅削減で決着している。この一連の計画推進で各地域にあった既存の浄化槽(コミュニティープラント・通称コミプラ)が廃止になり訴訟問題もあって森さんも深く関わっていましたがこのブログでは省略。


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1.ゼロ・ウェイストとは (一般に下記となっています)

・「ゼロ(zero)ウェイスト(waste)「ごみ・無駄・浪費をゼロにする」の意味。 

 オーストラリア発のごみ減量化政策。世界各地でごみの大幅減量に成功する自治

 が続出し、日本でも徳島県上勝町(2003年)、福岡県の大木町(2008年)、熊本

 県水俣市(2009年)、奈良県斑鳩町(2017年)がゼロ・ウェイスト宣言をしていま

 す。

・「処理施設を持つ代わりに、ごみを減らす」「ごみを減らせば、施設は要らない」...

 高額な施設建設にお金をかけず、ソフト面での減量化施策に重点を置きます。

・合言葉は「4つのL」...「Local(地域主導)」「Low Cost(低コスト)」「Low Impact(環境負荷が低い)」「Low Tech(最新技術に頼らない)」が指針です。

 

2.葉山町のごみ処理広域化

    (*森英二さん町長 平成20年1月20日~平成24年1月19日)

 平成 9年5月  ごみ処理広域化に関する国の通知

 平成 10年 3月 神奈川県がごみ処理広域化計画策定

        横須賀市鎌倉市、逗子市、三浦市葉山町(横須賀三浦ブロック)

   県下9ブロックを設定)

 平成 18年 2月 横須賀市三浦市葉山町の2市1町計画 

           (鎌倉市、逗子市は加わらず)

 平成 18年4月 鎌倉市、逗子市ごみ処理広域化覚書締結(平成22年覚書解除)

 平成 20年 6月 葉山町は2市1町ごみ処理広域化計画から離脱

           (森さんの町長選挙時の公約)

 平成 21年 3月 横須賀市三浦市ごみ処理広域化基本計画  

   平成  28年 7月 鎌倉市、逗子市、葉山町ゴミ処理広域化覚書締結

   平成  29年7月 廃棄物の焼却処理の試行に関する契約書締結 

                               逗子市は葉山町可燃ごみ受入れ開始

 平成  30年 3月 逗子市と葉山町との可燃ごみの焼却処理の事務委託と、葉山町

        逗子市とのし尿及び浄化槽汚泥処理の事務委託に関する協議書、

        規約、協定書締結

 平成  30年 4月 上記事務委託開始

 平成  31年 3月 逗子市と葉山町との容器包装プラスチックの処理施設の整備運営

                               に関する事務の事務委託に関する協議書、規約、協定書締結。

 平成  31年 4月 上記事務委託開始

 令和 2年 8月 平成28年7月締結の覚書を解除し、鎌倉市、逗子市、葉山町ごみ処理

                               広域化実施計画を策定、確認書締結

f:id:meijizuyou:20200813093817j:plain 逗子市浄化管理センター

   (桜山の葉山より海に面した場所にある)

3.基本理念

 平成28年7月締結の覚書から基本理念として「資源の無駄をなくし環境負荷の少ない循環型社会の形成に資するゼロ・ウェイストを目指します。」とうたっています。令和 2年8月策定の実施計画はこれを受け継ぎ、合わせて「連携して取り組むことで環境面、財政面を考慮した安心安全で効率的かつ持続可能な廃棄物処理体制の構築を目指すとともに廃棄物の3R(Reduce発生抑制, Reuse再使用,Recycle原材料として再利用)の推進を図るものです。」と記しています。  

 

4.森英二さんの選択

 葉山町NPO法人環境ファミリー葉山を立ち上げ、内外のごみ政策を研究、森さん

の「ゼロ・ウェイスト」政策を葉山町で提唱したのは安藤忠雄氏でした。

(2年後66歳の若さで亡くなっている。)

f:id:meijizuyou:20200812193334j:plain 森町長(中央)

 安藤忠雄さん(左)と「ゼロ・ウェイストを考え・進める会」の野中康司さん(右)f:id:meijizuyou:20200812220539j:plain

 安藤氏は「葉山のゴミゼロ(ゼロ・ウェイスト)から学ぶゴミ問題」の文章でこう述べていました。『森さんは1月20日に町長に就任し、その10日後に2市1町ごみ処理広域化「地域計画」に判子を捺せと求められ、捺さないと戻した。そして、広域処理から離脱し自区内処理(単独処理)へと方針転換をすることを表明した。実は2市1町ごみ処理広域化については議会へ詳細な説明もされていなかった。判子を捺していたら大変なことになっていた。』

 一旦横須賀市三浦市葉山町で行うことにしたゴミの広域化を町長に就任してここから脱退し、推進始めていた横須賀市三浦市から賠償訴訟を起こされ敗訴の場合は個人負担という環境に置かれたほどでした。当時ごみのゼロ・ウェイストに理解はあっても2市1町広域化計画からの離脱は反対者が多かったようです。議会でS議員からゼロ・ウェイストの好評価と合わせて離脱の厳しい質問をされその回答を通じ森さんの信念を多くの町民に少しずつ理解させる契機になったのではと思われます。ゼロ・ウェイストは人口1,500人と四国で一番少ない上勝町(かみかつちょう)で成功しても人口33,000人の葉山では無理という声も多かったのだと思います。 

 それでも森英二さんは、上勝町NPO法人「ゼロ・ウェイストアカデミー」の事務局長松岡夏子さん(当時27歳)を口説いて任期付きの葉山町職員にしてごみ減量担当にしています。

f:id:meijizuyou:20200812193446j:plain 松岡夏子さん

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 松岡夏子さんは「5年間でごみ半減はゴミが資源と実感できる仕組みが整えば無理な数字ではない」と当時述べています。現在は三菱UFJリサーチコンサルティングで副主任研究員として活躍されています。また「ゼロ・ウェイストアカデミー」には外国から見学者も多く理事長の坂野昌女史(30歳)は昨年1月、スイスで開かれた世界経済フォーラムの年次総会(ダボス会議)で共同議長を務め、次世代リーダーとしても注目を集めている方です。プラスチックによる海洋汚染が世界的に注目される中で、「サーキュラー・エコノミー(循環型経済)」というキーワードは会議でも重要なトピックの一つで、坂野さんは最も目立った日本人の一人だったようです。

f:id:meijizuyou:20200812193537j:plain 坂野 昌さん

 一方町役場の環境課に若手の服部雄一郎さんがおられごみのゼロ・ウェイスト運動の普及に先頭になって尽力されました。服部さんは町として将来を嘱望されていましたが米国UCLAバークレー校大学院に留学を機に退職されたのは森さんにとっては残念に思われたと思います。服部さんは帰国後べア・ジョンソンの著者「ゼロ・ウエスト・ホーム」を翻訳され現在は高知県東部の香美市(人口約26,000人)で自然と共に暮らしながら、「ゼロ・ウェイスト」に取り組んでいるそうです。その一番の収穫は、「ごみ出しの手間が激減し、生活の快適さと地球環境への負担減が一致したこと」と述べておられます。

f:id:meijizuyou:20200812221017j:plain   服部雄一郎さん夫妻

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 森さんが日本で最初にゼロ・ウェイストを宣言した上勝町に直接コンタクトとして中心的な事務局長を葉山町職員にした行動力には敬意を払わざるを得ません。また日本でのゼロ・ウェイストに関与した著名な方が葉山町に絡んでいたことも葉山町が日本における人口3万人を超える町でのゼロ・ウェイストの草分けと言っても良いのではと思います。 

 逗子市廃棄物減量等推進員として池子にある逗子市環境クリーンセンターを見学し、葉山から受け入れるごみがどのような道路を通って池子のクリーンセンターに来るか等の説明も受けました。また説明会等で生ごみ削減のためのコンポスター(密封式のプラスチック容器の中に土と生ごみを入れて微生物の力で生ごみを分解し堆肥をつくる容器)や葉山の松本信夫さんが考案したというバクテリアdeキエーロ(堆肥不要の人のために蓋を密封しない、水を切らないでよく土に埋めるだけの容器)を見ましたが、森夫人はコンポスターの普及で希望者宅に届けて尽力されていました。逗子市では桐ケ谷市長が助成金制度で普及を推進しています。

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 葉山町クリーンセンターは老朽化で昨年10月再整備に関する住民説明会が開かれ令和3年~令和5年に解体建設、令和6年供用開始予定とのことです。(現施設:ごみ焼却施設S52年4月稼働、H22休止、不燃物処理施設S53年4月稼働、し尿焼却施設S56年10月稼働、H21休止。)≪葉山浄化センター稼働まで横浜市に委託、この間のし尿浄化槽汚泥処理設備に関する葉山町民オンブスマンの活躍はこの記事では省略≫ 

 葉山町は逗子市とのごみ処理広域連携で葉山町はし尿浄化槽汚泥処理を、逗子市は燃やすごみと容器包装プラスチックの処理を行うことにし、新しい施設はゼロ・ウェイストの推進に寄与する施設にするという説明がなされています。

 横須賀市三浦市は2市でごみ処理広域化を進め横須賀ごみ処理施設「エコミル」の稼働に伴い、令和2年1月からごみの分別が変更になっているそうです。  

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 森さんの選択は、その後の松尾崇鎌倉市長、平井竜一逗子市長→桐ケ谷覚市長、山梨葉山崇仁町長に否応なく引き継がれてこの3市のゴミ広域化計画となっています。もし葉山町横須賀市三浦市とのごみ処理広域化の中に居た場合、どうなっていたのかは判りません。日本各地でごみの分別は既に常識になっていますが、心無い人が分別を無視している現実もあり各ごみステーションでは目に見える形でいろいろ工夫しているようです。

 森さんの後を引き継いだ山梨町長は公約の“ごみ戸別収集”を平成26年6月から始めています。共有のゴミステーションからではなく、1万4000世帯余りの全戸を訪ねて収集する戸別収集は導入当初、住民からクレームの嵐。分別が十分でないごみを収集しないままにして、怒りの電話をいただくことも多かったと言います。しかし堤崎輝人氏他若手職員の住民に丁寧に応対する仕組みの導入や、収集の効率化など、積極的に新たな取り組みへのチャレンジでクリーンセンターの改革が始まり今も続いています。

 f:id:meijizuyou:20200813101744j:plain   葉山クリーンセンター職員

  (左から、堤崎輝人さん、内田自栄所長、小山拓さん、仲田聖也さん)

 

 森さんが町長に就任した時、葉山町のごみ焼却経費は年10億円以上でこれは一般会計の1割に当たる額だったそうで、借金が下水道債10,258百万円、一般会計債5,815百万円の計160億円程有りましたが、4年後この借金は149億円と11億円減っていました。ごみ処理や下水道事業の大幅見直し等によるものではと思います。平成27年度の借金は133億円と公表されていますので退任後も借金減額の流れが続いているようです。

 神奈川県は平成30年(2018年)「プラごみゼロ宣言」をしてプラスチック製のストローやレジ袋の利用廃止と回収を呼びかけ、令和20年(2030年)までにプラスチックによるゴミのゼロ化を目指すことになりました。山梨町長も即座に賛同し「はやまクリーンプログラム」を独自に掲げ、公共施設の自動販売機でペットボトルの飲料を扱わないことに決めています。海洋汚染を防止し美しい葉山の海を永続的に守るためです。森夫人は神奈川県ワンウエイプラ削減実行委員会委員をつとめられています。またペットボトルの蓋を収集して泉区の障害者施設で選別、破砕後、回収業者に渡しリサイクル代金430個1㎏15円のうち10円はユニセフに寄付、5円は障害者団体に寄付となるそうです。ユニセフを通じ世界の子供たちへのワクチン代は1人20円とのこと。

 

f:id:meijizuyou:20200813001626j:plain   森 英二夫妻

   (左は三面子の孫 高木さと子さん)

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 葉山は昔から文化人が美しい海を愛した町でもあり、当校友会が森町長の時に葉山に住み、葉山で亡くなった川柳界の3大恩人岡田三面子(本名・朝太郎、平和主義の宰相吉田茂の師)の川柳碑を作りましたが、葉山の地ではなく逗子市環境クリンセンターのある池子のやや離れてはいますが同じく山の上に仮建立してあります。森英二さんの追悼で思い出されたので付記しておきます。

                                (足立)

明治大学落語研究会創部60周年にことよせて

  5月14日届いた神奈川県東部支部平戸幹事長のメール連絡に添えられていた明治大学校友会会長 北野 大発信の文書に今年の全国校友香川大会中止の情報がありました。昨年2019年 の全国校友千葉大会の際に香川県支部の玉越浩達支部長が全国支部長を代表して挨拶されたのを思い出すと9月開催迄4ヵ月を切り準備もほぼ完了間近かと思われて香川県支部はじめ関係者の方々にとって新型コロナウイルスの影響とはいえ中止決断は断腸の思いと察せられます。

  “おいでまあせ お接待の心 うどん県” として

   9月5日(土) 前夜祭 会場:JRホテルクレメント高松、  

   9月6日(日) 大 会 会場:サンポートホール(大ホール)

  を予定していました。

f:id:meijizuyou:20200527151412j:plain   残念ながら中止となった香川大会PRチラシ  

 また千葉大会の際に受付で配られていた「明治大学落語研究会創部60年記念明大落語会」のチラシも思い出されました。明大落研の年表によると文化部の公式クラブとしての創部は昭和35年(1960年)で今年創部60周年です。創部10年後に 十代目金原亭馬生師匠に指導を仰ぎ、昭和34年文学部卒で講談師になった宝井馬琴のことを明大落研では先生と呼んでいたようです。チラシの落語会は令和元年10月26日(土)有楽町朝日ホールで全席指定でしたが残念ながら参加できませんでした。

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 明治大学は 2011年10月 15日、明治大学落語研究会、同OB会との共催により、駿河台キャンパス・アカデミーホールで、明治大学創立 130周年、明治大学落語研究会創部 50周年を記念するとともに、東日本大震災復興チャリティを兼ねた『明大落語会』を開催しています。満席のホール、 1200人の観客は、明大落語研究会出身の著名な出演者の話芸に大いに笑い、泣いたとのことです。「日本の伝統文化の象徴ともいうべき『落語』は、人びとを元気づける存在」 でもあります。と納谷学長が述べています。

 昨年は9月16日の「第一回敬老寄席IN葉山」で明大卒の二つ目“春雨や風子”さんの落語を葉山町福祉文化会館で聞きましたが、彼女は故林家三平(S33真打)、 三遊亭圓丈(S53真打)、三遊亭小遊三(S58真打)さん達と同様明大落研出身ではないのですが、新型コロナウイルスで外出自粛の中 落語ガールズの一員としてブログ掲載で元気を振舞っています。

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     「第一回敬老寄席IN葉山」で落語披露の“春雨や風子”さん

   動画  <女流落語家が卒業ソングを歌ってみた>で 春雨や風子さんが歌っています。   

  *明大卒の落語家が一番多い中、同一大学で3名の女性落語家(桂右團治・川柳

   つくし・柳亭こみち)を出している早大卒を向こうに回し頑張っています。   

 

 本題に戻し明大落研の出身者には三宅裕司渡辺正行小宮孝泰、エディー、正月太郎各氏のように落語家にならないでコメディアンやお笑いタレントになった人もいますが、落語家になって活躍している人が多くいます。五街道雲助(S56真打)、瀧川鯉昇(H2真打)、立川談の助(S53二つ目)、立川志の輔(H2真打)、立川談幸(S62真打)、橘右門(寄席文字書家)、月亭遊方上方落語)、立川志ら乃(H15真打)、桂竹千代(H27真打)、立川がじら(H28真打)等の各氏で、創部60年記念明大落語会の出演者にも名前がありました。

   “明治大学落語研究会” のホームページ<活躍中のOB>も見て下さいね!

 当支部との縁としては、平成19年の新年会に日向現相談役の計らいで真打の桂歌助さんと滝川鯉斗さんを迎えて落語を聞いたことがあります。

桂歌助さんと桂竹千代さんとは直接の縁はないのですが、横浜出身だった4代目桂米丸師匠の同じ孫弟子(歌丸さんと竹丸さんがそれぞれの師匠)のようです。滝川鯉斗さんは瀧川鯉昇さんの弟子でした。

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    明大落研出身者の橘右門さん(橘流寄席文字伝承者)の向こうを張って

    出演者の名前を書いたのは書道クラブの牛久順之さんでした。

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  また平成22年2月に逗子ロータリークラブ(会長臼井浩)と葉山ロータリークラブ(会長大友輝雄)主催で大学落語鑑賞会を逗子文化プラザで開催したことがあり、明大落研が青山学院、中央、慶応の落研のまとめ役だったこともあって当校友会も後援を決め仲内、足立2名が最初から参画することになりました。 この企画は決まってから半年前迄進展が遅々として進まず、平成21年9月明治大学全国校友富山大会があった際に記念講演が富山県射水市出身である立川志の輔さんだったこともあり、船津支部長(当時)から大会参加の時に志の輔さんに直接会って逗子での大学落語鑑賞会の話を伝えて明大落研に早く進めるようお願いして欲しいと頼まれました。 

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 楽屋に石渡さんと行って面会を申し込み校友会の名刺を取り継ぎの人に渡し、先に待っていた方も居られたのですが直ぐ会っていただき、“落研に繋げるよう心します”との返事を志の輔さんからもらいました。数日を経ないで明大の落研から連絡が入り、大学落語鑑賞会が急展開していったという裏話もありました。志の輔さんと会話したのは数分でしたが同じ校友の有難みを味わった良い思い出です。

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          千登世寿司2階での顔合わせ打合せ会

 後列:左から 八木君(明大)、村上君(明大)、戸田君(青学)、大川君(青学)

 前列:左から  仲内、足立、渡邊貞雄さん、臼井浩さん、船津支部長(当時)

 

 明大落研の窓口だった紫紺亭小迷治こと八木真平君が当日の落語で逗子商店街の店名を出しての話は特に感心した記憶が残っています。また当時明大落研に大学落語選手権で2位となった駿河炎誌こと小田中裕士君がいたことと、また学生に交じって横浜市立蒔田小学校5年の落語少年“はな家小でん”こと内野智也君が出演して花を添えてくれました。(現在 八木真平君は明大落研OB会副事務局長、小田中裕士君は立川がじら)

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           明大落研 駿河炎誌(小田中裕士君)*現在二つ目の立川がじら

    *“立川がじら”さんには再度逗葉地区に来て落語披露をお願いしたい!

大学落語鑑賞会は、船津支部長と逗子葉山で落語会を開催する逗子葉山駅前寄席の渡邊理事長の熱い思いで実現の運びとなったのですが、逗子葉山鎌倉駅前寄席となった今でも多くの当校友会役員がボランティアで参加しています。 

 

 前述した全国校友千葉大会の司会は明大落研出身の渡辺正行さんと明大卒アナウンサーの高畑百合子さんでしたが、終わった帰りに渡辺正行さんと出会い暫し会話をして一緒に砂山、小川両氏が写真におさまっています。

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     左から 砂山相談役、小川幹事長、一人おいて 渡辺正行さん

 5月25日新型コロナウイルス感染拡大防止で出されていた緊急事態宣言が神奈川県も含め全面解除になりました。経済界はもとよりスポーツや舞台を活動の場とする音楽関係者や落語を含む伝統芸能や演劇関係者にとって生業に制約を受けていたわけで、見たり聞いたりすることで生きている実感を味わっていた人たちに再び喜びを与えて欲しいと思っています。新型コロナウイルスの終息は1年以上後かもしれませんが、ほぼ流行の収束を機に段階的にイベントの再開を願っています。   (足立 記)

ベートーヴェン生誕250年にことよせて

 このブログは、5月連休明けに掲載予定でしたが、新型コロナウイルス感染拡大をくい止めるために東京、埼玉、千葉、神奈川の一都三県共同キャンペーンとして4月25日~5月6日迄をSTAY HOME週刊 ≪あなたの命を 家族を 大切な人を 社会を守るため 大型連休の外出を自粛 STAY HOMEウチで過ごそう≫として位置づけされましたので執筆者の了解のもと(未完のため)急きょ暫定掲載していました。

f:id:meijizuyou:20200425080519p:plain 東京、埼玉、千葉、神奈川で展開

 大型連休中ベートーヴェンを含むLPレコードやCD等で家でゆったりと音楽を楽しんでもらえればとの思いでした。連休明け7日に新たな記事・写真を追加し完結しています。改めて見て頂ければと思ます。

                     2020-5-7 支部長  

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  4月15日足立支部長から、電話とFAXで当支部ブログに「(仮題)ベートーヴェン生誕250年に思う」の記事依頼がある。2月役員会でも今年がベートーヴェン生誕250年にあたりクラシック鑑賞クラブで取り上げたらとの話も出ていた。FAXには下記が記されていた。

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  『先日4月12日(日)朝シューベルトの『楽興の時』第3番で始まるNHKラジオ<音楽の泉>で曲が流れているのを聞きました。ベートーヴェンの有名なヴァイオリン・ソナタ第5番「春」で、そういえば今年はベートーヴェン生誕250年にあたるのでクラシック鑑賞クラブで鑑賞の話も役員会で出ていたことを思い出しました。

いつも解説している皆川達夫さんの声と違うような気がしていましたが、アナウンサーから解説は奥田佳道さんとの説明でした。NHKテレビの漢詩紀行朗読終了後も続いていた声が心地よかったNHK元アナ広瀬修子さんの「音楽の泉 お話は皆川達夫さんでした」は聞かれなくなってしまいました。調べたところ皆川さんは3月29日(日)バッハ/無伴奏ヴァイオリン曲(ヘンリク・シェリングの名演奏)の解説を最後に、奥田さんに代わっていました。

音楽評論家の奥田さんは知りませんでしたが、立教大学グリークラブを40年近く指揮した皆川達夫教授の西洋音楽史を学んだ師弟の間柄のようです。上記余談になりまたが、当面支部行事も新型コロナウイルスの影響で開催中止なので是非寄稿をお願い致します。』

      f:id:meijizuyou:20200422160416p:plain      f:id:meijizuyou:20200422160548j:plain   鑑賞会で 堀内敬三著『音楽の泉』を見る      解説者 皆川達夫さん

 勿論、即了解した。昨年はマンドリンコンサート準備で参加者が忙しく、また耳が遠くなったこともあり隔月開催していた我が家でのクラシック鑑賞会は1年程中止になっていて、ブログ掲載は有難い話だった。これまでも開催毎に当日の配布資料を作成して参加者に配ってきたのでベートーヴェンの集約資料をの思いで作るつくることにした。

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       ベートーヴェンはバレ音楽も2作品作っていた (この映像は別)

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 作曲家のベートーヴェンがドイツのボン市で1770年に生まれて、今年で250年になる。これを契機に彼の曲を改めて深く聴き直すのには良い機会であるかもしれない。しかし残念なことに「新型コロナウイルス」禍のため音楽会が開催されないため、ベートーヴェンの曲のコンサートやリサイタルは全く行われない。ベートーヴェンはこのウイルス禍を草葉の陰で歎いていることだろう。

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 ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」や第5番「運命」はクラシック音楽の入門の曲であり、多くの人々の知るものである。この第3番「英雄」の楽譜の表紙には「ナポレオンに献呈する」との文章が書き添えられていたが、ナポレオンが後に皇帝になったのを失望したベートーヴェンは、この文章をペンで罫線を引いて抹消している。それ故、本当は「第3番」は「英雄」ではないのではないか。

 そして、遺書(ハイリゲンシュタットの遺書)を書いているように、かれの生涯は決して明るいものではなかった。特に彼の晩年は耳の難聴に苦しんだ。作曲家にとり耳が聞こえないことは致命的な打撃である。彼はこの難聴を直すために種々と手立てを尽くし苦闘している。

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 ベートーヴェンが弟カールの遺児カールと弟ヨーハンに残した手紙。数日後に「歓喜と澄みきった一日を一度は私に見せて下さい。」と祈りの言葉を添えている。

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 だが、彼はその苦難を逆手にとり、その難聴のなかで、すばらしい曲を生み出している。それらは晩年に作曲した室内楽、つまり弦楽四重奏曲やピアノやヴァイオリンのソナタなどである。そのなかで特に弦楽四重奏曲の「第15番イ短調」と「第16番へ長調」とがすばらしい。この2曲は聴くのが難解ではあるが、ベートーヴェンの心の苦渋を深く理解するためにも、この生誕250年のこの時には、ぜひとも聞いて欲しい曲である。

 さてベートーヴェン交響曲はそれらを演奏する指揮者により、その趣、感想が全く違ってくる。例えばフルトヴェングラーカラヤンとの演奏は全く異なる。それ故、フルトヴェングラー・ファンはカラヤンが大嫌いである。しかし、私はカラヤンの生演奏(なまえんそう=録音ではなく実際の演奏)を、彼が初めて単身で来日して、NHK交響楽団を指揮したのを初め、その後のベルリン交響楽団を引き連れて来日する度に、すべての生の演奏を聞いているためか、彼の演奏に深い親しみを抱いている。カラヤンは女流クラリネット奏者のザビーネ・マイヤーをベルリン・フィルに推挙したのを、楽団員から拒否されてから、遂に楽団員たちからカラヤンベルリン・フィルの終身指揮者の地位を降ろされてしまい、ソニーの大賀社長のみに看取られて寂しく世を去ることになる。このためか、カラヤン嫌いが多いのかもしれないが、私の場合、先述したようにカラヤンの生演奏を多く聞いてきているためか、彼は好きな指揮者の一人である。彼の生演奏は迫力と溌剌としたもので、私は彼の指揮するベートーヴェン交響曲は、今でもありありと脳裏に浮かんでくる。

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      ヘルベルト・フォン・カラヤン        第九を指揮する大賀典雄

 私はフルトヴェングラーも好きな指揮者であるが、彼の生演奏は聞いたことがない。熱烈なフルトヴェングラー・ファンでも、彼の生演奏を聞いている人は殆どいないのではないか。往年の演奏家の好悪の判断は録音(CD)に依るしかない。が、私のカラヤンからの体験から思うには、生演奏を聞くことで、印象がガラット変わることはあるのではないか。そこで、このベートーヴェン生誕250年のこの際に、彼の交響曲室内楽を、生の演奏で聞く機会にしてみてはどうだろうか。ベートーヴェンの音楽にたいする感激・印象が変わるかもしれない。

 
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 以下「クラシック鑑賞会」で取り上げた際の資料等からベートーヴェンに関する部分を抜粋して記すことにする。

 

第4回 平成25年3月31日 テーマ「ベートーヴェン

 1770年ドイツのボンに生まれ1827年56歳で生涯を終える。終生結婚しなかったがそれは愛した女性が全部貴族の出身で身分の違いに原因があったためなどという。オーケストラの指揮者はベートーヴェン交響曲の指揮で評価されるようである。

  交響曲 第1番~第9番(第3番「英雄」、第5番「運命」、第6番「田園」、第9番「合唱付き」)のさわりを聴いた。第5番「運命」では、出だしのいわゆる「運命が扉をたたく」というモチーフの曲のところを、フルトヴェングラーブルーノ・ワルタートスカニーニカラヤンなどの指揮者が演奏した各々のCDで聴き比べをした。

 その他、弦楽四重奏曲やピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲等も聴いている。

 

第5回 平成25年7月28日 テーマ「ブラームス

 ブラームスベートーヴェンを崇拝して部屋にベートーヴェンの像を飾っていた。

 ベートーヴェンの作風を最もよく継いでいるのは、ブラームスであると言われ, 「作曲中絶えず背後に巨人の足音を聴いていた」彼の交響曲第1番の作曲時の心境を伝えるこの言葉は余りにも有名である。

 f:id:meijizuyou:20200422234558j:plain ブラームス

 

第9回 平成26年4月27日 テーマ「シューベルト

  シューベルトが最も尊敬し目標にしたのはベートーヴェンである。シューベルトが生まれた時、ベートーヴェンは27歳。既にウィーンで演奏活動をしていた。11歳で神学校の寄宿生になった頃は、次々と交響曲を発表し、寄宿生にとっては憧れの的であった。かつてベートーヴェンを教えた宮廷楽長のサリエリからはとくに熱心に学んだ。

f:id:meijizuyou:20200423095011j:plain シューベルト

 ベートーヴェンが死去した際葬儀に参列したシューベルトはその後仲間と酒場に行って「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯」と音頭をとり、翌年自ら31歳の若さで亡くなった。ヴェーリング墓地のベートーヴェンの墓の右隣に埋葬され、二人の遺体は後にウイーン中央墓地に移された。部員の林さんと斎藤女史は訪ねたと聞いている。

 ヴェーリング墓地は今シューベルト公園になっているが二人の墓石は残されている。

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               ヴェーリング墓地                                              ウイーン中央墓地 

 

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    べートーヴェンの家         使用していた78鍵 ピアノ

  

 第12回 平成26年10月26日 テーマ「リスト」

 12歳のリストが演奏する会場に居合わせたベートーヴェンは少年リストを抱いて額にキスを与えた。天才的なピアニストだったリストはベートーヴェン交響曲ピアノ曲に編曲している。

f:id:meijizuyou:20200422234653j:plain リスト


第15回 平成27年4年26日 テーマ「ワグナー」

 ワグナーはウェーバーから強い影響を受けたが15歳の時にベートーヴェンに感動を受けて音楽家を志した。また当時演奏されることが少なかったベートーヴェンの『第九』の演奏会を成功させ、以後『第九』は名曲として評価されることとなった。

 f:id:meijizuyou:20200422234743j:plain ワグナー

 

第17回 平成27年8月16日 テーマ「マーラー

 マーラーの弟子のブルーノ・ワルター指揮ベートーヴェン交響曲第6番へ長調「田園」を聴いた。ワルターはステレオレコードが出現した時代まで生存していたため所有のコロンビア交響楽団ワルター指揮LPを懸けての鑑賞だった。

 

第25回 平成29年1月28日 テーマ「ピアノ曲

 ベートーヴェンは、その時々に使っていたピアノの鍵盤(61鍵~73鍵)を目いっぱい使って作曲したと言われ、ピアノ作品は、そのままピアノの歴史と言っても過言ではない。現在の88鍵ピアノはベートーヴェンやリストの時代にはまだ無かった。ベートーヴェンには多くのソナタ(悲愴、月光等)が有名で、また5つの協奏曲(第5番「皇帝」等)も聴いている。

 

第26回 平成29年3月25日 テーマ「ヴァイオリン曲」

 著名な作曲家はヴァイオリニストを除きヴァイオリン協奏曲は1曲しか作っていない。同年代のヴァイオリニストの名手に意見を聞いたり依頼されて作曲しているので演奏としてはハイレベルの技術がいるということで良い音が出やすいニ長調で作られることが多い。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲はヴァイオリニストのヘランツ・クレメントの助言を入れて作曲、クレメントの演奏は素晴らしいものであったがその後演奏されることも無く忘れられていた。ブラームスの親友ヴァイオリニストのヨーゼム・ヨアヒムが再び取り上げ『ヴァイオリン協奏曲の王者』と呼ばれるまでの知名度を与えた

f:id:meijizuyou:20200423000038j:plain  ヨーゼム・ヨアヒム

 

第28回 平成29年7月29日 テーマ「よく知られた交響曲

 ベートーヴェン交響曲は指揮する指揮者の良し悪しや好悪で判断されるようだ。

第6番「田園」だと指揮者のブルーノ・ワルターの指揮が、第7番はクライバーの指揮が、また第9番「合唱付き」ではフルトヴェングラーが最高といった具合である。

 f:id:meijizuyou:20200422213325j:plain ブルーノ・ワルター 第6番「田園」

f:id:meijizuyou:20200422213402j:plain カルロス・クライバー 第7番 

f:id:meijizuyou:20200422213445j:plain  フルトヴェングラー 第9番「合唱付き」

 

第32回 平成30年3月28日 テーマ「名曲と名演奏家

 現在ショパンを弾くピアニストは多いが、彼らはベートーヴェンピアノ曲はあまり演奏しない。ベートーヴェンピアノ曲を演奏する著名なピアニストはロシアのエミール・ギレリスやスヴャストスラフ・リヒテル、イタリアのマウリツィオ・ポリーニ(彼はショパンも演奏)やドイツのアルフレッド・ブレンデル等々である。

 ベートーヴェンのピアノ・ソナタの中から ピアノ:エミール・ギレリスを聴いた。

f:id:meijizuyou:20200422214812j:plain エミール・ギレリス  

 

 ***明治大学校友会のブログなのでやはり明治大学専門部文芸科で学んだ

     『五味康祐氏とベートーヴェン』について述べておきたい。***

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 五味康祐は剣豪作家となる前、極貧のため妻とも別居しルンペン同様の放浪生活をしていたが彼を支えたのは『新潮社』の怪物編集者斎藤十一氏だった。度々斎藤氏宅でLPレコードを聞かせてもらい、これが芥川賞受賞後、収入多大になってから豪邸を新築した際、タンノイ・オートグラフという英国製のオーディオマニア垂涎の高価なスピーカーを購入し、大型のオーディオ装置を30畳の部屋に設置している。

                       (週刊『新潮』のグラビアに掲載)

 クラシック音楽に造詣深く、晩年入院先の病室に持ち込まれたオーディオ装置とヘッドフォンを使って、五味が最後に聴いたレコードは、ベートーヴェンピアノソナタ

第32番作品111だった。また生前、五味は「私が死ぬとき、もし、天候に異変があったら、わたしはベートーヴェンのもとに往くのだ、そう思ってくれと家内に言ってある」と語っている。

 五味康祐氏は鎌倉建長寺の回春院に眠っているので新型コロナウイルス感染が収束した暁には今年是非訪ねて共にベートーヴェンについて語り合っていただきたい。

                          ( S28商卒 柳生 浩 )

追記1:大賀典雄ソニー社長について

 モーツアルトの生誕地でもあるザルツブルグカラヤンの家で最後を看取った大賀さんは「いい音を聞くには平行壁面があってはいけない」と言って軽井沢に正五角形の大賀ホールを作ったことでも知られていますが、逗子の披露山庭園住宅(トンネルの上近く)に家があり、大崎公園を散策することもありました。偶然出会って会話した部員もいましたが柳生さんの奥様は大賀夫人の緑さんと絵画の関係で顔見知りとのことです。また大賀さんをソニーに誘った創業者盛田昭夫さんも逗子にあった海軍施設の縁で逗子に一時住まわれていました。

追記2:皆川達夫さん訃報

 この4月19日、92歳で3月までNHKラジオ「音楽の泉」を12年に亘り解説されていた皆川達夫さんが亡くなられました。心よりご冥福をお祈りいたします。

                       逗葉駿台会クラシック鑑賞クラブ 

          

 

 

 

故 浅田毅衛 特別顧問の想い出

 昨年(令和元年)12月25日浅田毅衛当支部特別顧問の篤子奥様から電話を頂き、先生が12月14日死去されたことを知らされました。享年89歳でした。

 ー浅田毅衛先生は1954年(S29)博商卒で元明商学部長、名誉教授。そして

逗子市久木に住まわれ平成7年10月より当支部顧問のち特別顧問をされていましたー

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 昨年は3月6日(水)に逗子文化プラザで逗子葉山日本中国友好協会創立20周年記念の「春節の祝い」があり、私が実行委員長だった関係から提案して浅田先生に創立20周年記念式典で記念講演をいただきました。これは10年前に先生にもご協力いただき、明治時代に日中友好のために尽力された葉山に住み葉山で亡くなった岡田朝太郎氏のお孫さん高木さと子さんの依頼を受けて記念碑を建立した縁があったからです。岡田朝太郎氏は清国政府の要請を受けて東京帝国大学教授の身で北京大学創立前夜から中国に赴き中国の法典近代化に努めた方で広田弘毅吉田茂両総理の恩師でもありました。東京帝国大学退官後は明治大学で教壇に立ち、若い頃明治政府が招いたボアソナードの通訳をしていた縁でボアソナードが帰国の際に使用していた机を譲り受け、後に明治大学に寄贈したことでも明治大学とは縁の深い方でした。

 浅田先生を伴って小坪の渡邊貞雄逗葉日中友好協会会長の自宅を訪問して打合せした際には渡邊会長より1歳下という事で話がはずんでいました。

f:id:meijizuyou:20200322231845j:plain 渡邊貞雄会長

 先生は元気そのものだったので訃報には驚きましたが、奥様の話では「春節の祝い」のあとに旅行に行ったり元気にしていたとのことですが、5月頃に肺がんが見つかり、その後、頭の血管に転移し血瘤が出来て専門の病院に入院されていたそうですが脳梗塞で急逝されたそうです。葬儀は家族葬で22日(日)済ませましたとのことでした。明大商学部教授・名誉教授でもあったので、教え子の先生方が弔問に訪れて忙しいと思い暫く弔問は控えていましたが、1月31日(金)午後訪問し奥様と先生との想い出を語っています。

 先生には当支部創立時からご協力いただいていましたが支部の総会、新年会にも以前出席されていました。また私にとっても、ゼミの先生であった石井常雄教授の大学での教授室の向い側が浅田毅衛先生の部屋であったこと、また石井先生が古希を迎えて大学を去るに際して浅田先生が「献呈の辞」を石井先生に贈っていただいたことも後で判りより親しみを感じていました。

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   石井ゼミ(前列左から3番目が石井先生。4番目は藤沢地域支部中澤幸雄氏

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             (石井ゼミ同期の仲間)
   献呈の辞

 石井常雄教授には,心身ともにご壮健で古稀を迎えられ,誠にめでたく思います。これを祝って商学研究所では古稀記念論文集を献呈し,教職員一同お喜び申し上げます。石井先生は,1927年(昭和2)年5月27日東京都池袋に生れ,生家は都内を流れる「神田川」発着の貨物を取扱う運送業者であったという。子供の頃から乗物に関心をもたれた先生は,その生い立ちから現在の先生の研究を宿命づけるものがあったといえるだろう。交通とくに小運送に関心を持ち続けてこられた先生は,1946(昭和21)年明治大学商学部に進学し,麻生平八郎博士に師事して「交通論」を専攻しながら交通分野で当時陽の当ることが少なかったトラック輸送産業の研究に励まれ,大学院を経て,1963(昭和38年)年教授となり,現在学生に敬愛されながら「交通論」「倉庫論」の講義と「演習」を担当されている。先生の研究姿勢は,鉄道,トラック輸送の基本的性格を「歴史的=論理的」立場から日本的特質を明らかにし,鉄道史・トラック史などの研究を散逸しつつある文献・原史料の蒐集を進めながら展開し,中小運送業の近代化も交通に働く人たちの地位向上を提言しておられる。門外漢である私には研究業績の意義を推し量ることはできないが,本巻の巻末に掲げられている業績目録にそれが示されていると思う。また,先生の功績は,その研究を通じて,通商産業省建設省運輸省などの専門委員として活躍された巻末の略年譜にみられるように,日本交通政策に深く貢献されていることを忘れることはできません。石井先生は昨年5月に古稀を迎えられ,本学の規定にしたがって3月をもって定年退職される事になった。本当に寂しい気持ちがします。同世代に育った私には,先輩である先生から文献,原史料の蒐集・研究方法などいろいろなことを教わった。先生には将来車両・その他の運搬具や諸史料を展示,公開できる「資料館」の創設という大志をえがかれているとのこと,その実現にむけて益々ご健康に留意さ'れて全国をかけ巡って下さい。そして,新しい21世紀に向かって前進していく明治大学商学部の姿を末永く見守って下さるよう心よりお願いします。最後に,今一度先生の古稀へのお祝いと,長年にわたり大学・本学部への教育・研究に尽くされた先生の功績に感謝の意を表してこの古稀記念論文集を献呈し,お別れしたいと思います。1998年2月吉日 商学部長 浅田毅衛

 

(印象深い浅田毅衛先生との想い出)

1.支部創立記念時計と創立記念旗に署名をもらう

 明治大学校友会逗子葉山地域支部(設立時は逗葉支部)は平成4年11月21日に創立総会を開催していますが、これに先立つ発起人会や幹事会で翌年5月23日に明大マンドリン倶楽部演奏会開催と支部創立記念時計を作成することを決定していました。記念旗も急きょ作成しています。

 記念時計と記念旗に署名のお願いで浅田先生を訪問したのは平成5年3月のことだったと思います。家に上がり先生と奥様にお会いしたのはこれが最初でした。

 

f:id:meijizuyou:20200322210953j:plain  右斜め上に署名↑

f:id:meijizuyou:20200322211049j:plain 右斜め上に署名

 

2.明治大学マンドリン倶楽部演奏会のプログラムに記事依頼

 第1回演奏会プログラムには葉山在住の斎藤正直元学長の紹介記事を掲載し、平成6年の第2回演奏会プログラムには逗葉地区在住明大教授として白石四郎、由井武夫、鈴木享子、浅田毅衛の4氏の記事が掲載されていますが浅田先生の記事は下記となっていました。

 「私が逗子に居を構えるようになったのは、昭和45年12月でした。その頃の大学は紛争の余韻が残っており、静かで空気が良い逗子の町への帰宅が私には心の安らぎでした。今では違った意味でこの町の生活がその気持ち強くしてくれています。遊びに来てくれる学生諸君から通学への遠さを同情されますが他の地に住む気にはなれません。この地に校友会支部が出来たことは、すばらしいことだと思います。

                            (昭和29年商卒)

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3.平成19年6月16日総会で喜寿を祝い「喜寿讃賞」の賞状をお渡ししました。

 当支部では慶節を迎えた会員を総会で紹介して賞状と記念品を渡して共に祝うことにしていました(現在は廃止)が浅田先生が77歳の喜寿を迎えた平成19年総会の際に下記賞状をお渡ししました。

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       喜寿讃賞        浅田毅衛 殿

 あなたは昭和五年城崎温泉を北に望む城下町兵庫県豊岡に生まれて以来今日まで、紺碧の日本海と白砂青松の景観を脳裡に刻んで今年七十七歳の喜寿を迎えられました。

 明治大学教授として百年史の編纂に尽力され、今本学創立時最初の教師であった西園寺陶庵公が住んだ披露山と山続きの地に住んでいることに奇縁を感じておられるのではと思います。ここに満々と水を湛える郷里円山川の悠々たる流れに綾かって喜寿讃賞を贈り記念品を添えて表彰し共に長寿を祝うものです。 

  平成十九年六月十六日   明治大学校友会逗葉地域支部 支部長 船津孝二郎

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         (慶事表彰者を代表して挨拶する浅田先生)

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          (喜寿の美食を堪能する浅田先生)

    

4.平成20年11月13日付の岡田朝太郎顕彰碑建立にご協力いただきました。

 この碑は岡田朝太郎の孫の高木さと子さんから当明大校友会に協力要請があったもので、船津支部長の後押しで作成まではほぼ順調に進んだのですが設置場所の問題から暫く建立出来ませんでした。岡田朝太郎の功績調査や明治大学関係場所への設置等に浅田先生にお願いしたこともありましたが、高木さんが高齢でもあり池子の海の見える高台に現在仮設置したままになっています。

f:id:meijizuyou:20200322211910j:plain 浅田先生と

f:id:meijizuyou:20200322232351j:plain 裏面記載

 この碑は日中平和友好条約締結30周年を記念した岡田朝太郎の顕彰碑と共に川柳界の功績を謳った川柳碑にもなっていて多くの人に見て欲しいと思っていましたが、10年ほど経って平成31年3月の逗葉日中友好協会創立20周年記念「春節の祝い」の記念講演で浅田先生に紹介していただき資料配布もしましたのでより多くの方々に知られることになりました。(碑を見に行かれた方も多かったと聞いています)

 

5.平成24年6月16日(土)当支部創立20周年記念総会で記念講演

 浅田先生は明治大学百年史の編集委員をされていたので、支部創立20周年記念に際し、「明治大学130年のあゆみ」と題して記念講演をお願いしました。逗子文化プラザさざなみホールでの講演はプロジェクターで明治大学関連の多くの写真を写し説明をいただいたのもついこの間のような気がしています。なおギャラリーで写真クラブと書道クラブの展示もあり多くのご来賓に見ていただきましたが、浅田先生にも見ていただいています。 

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       (ギャラリーで開催した書道クラブの楽書展を見る)

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              (白石四郎特別顧問の幸子夫人と)

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(創立20周年記念総会は平井逗子市長、山梨葉山町長にも浅田先生の講演を聞いてい

 ただき向井眞一東部支部長ほか他地域支部、地元他大学校友会の方に加え明治大学

 援団を迎えてのイベントとなり浅田先生にも想い出に残る1日になったと思います)

 

6.平成31年3月6日(水)逗葉日中友好協会創立20周年記念「春節の集い」で

  記念講演

 この年3月迄は逗葉日中友好協会創立20周年と日中平和友好条約締結40周年を祝う年度ということで10年前に明大校友会が協力して建立した岡田朝太郎顕彰碑の周知の意味合いから浅田先生に記念講演をしていただきました。なお式典では碑に名前のある森英二葉山町長の勝美奥様、平井竜一逗子市長(共に当時)と横浜弁護士会元会長の横溝正子さん(当支部会員)にも演壇に上がってご挨拶いただいています。

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           高木さと子さんと森英二・勝美夫妻

f:id:meijizuyou:20200322212221j:plain 森勝美さん

f:id:meijizuyou:20200322212321j:plain 横溝正子さん

 

7.浅田先生は森英二前葉山町長の師でもあり、岡野加穂留学長と共に森英二氏の

  良き支援者でした。 

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  ’ (前列中央で花を持っているのが岡野学長、右隣は由井武夫特別顧問)’

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   (2008年~2012年 葉山町長をつとめた森英二氏・S37商卒)
 

8.浅田先生からは自ら編集委員であったので明治大学に関する多くの本を寄贈して

  いただきました。

  1)「明治大学100年史」

  2)「大学史紀要」第11号(特集 創立期の明治大学

  3)「紫紺の歴程 大学史紀要」第2号~第4号

  4)「明治大学商学部100年史」 

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   (総会で講演いただいた圭室文雄先生は明治大学商学部100年史の編集委員でした)

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 ( 浅田先生喜寿の年、箱根駅伝のため練習する体育会競争部を応援に行きましたが

 松本穣部長・S42商卒は明治大学商学部100年史の編集委員でもありました) 

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  (葉山に出来た明治大学体育会ヨット部合宿所にも足を運ばれ喜んでおられました)

 訪問した時まだ遺骨はご自宅で仏前にお線香を上げてから応接間でお茶と菓子を

頂いて30分程篤子奥様と想い出話をしました。先生の叙勲(平成22年4月瑞宝

中綬章)表彰額が飾られている応接間にはやはり教え子の方が多く見えられたとの

ことで、私のゼミの先生だった石井常雄教授のことも良くご存知でした。浅田先生

はものに拘らない一見おっとりした性格の方に見受けられましたが、100年史の

編纂に関与されていただけあって史実に忠実な面が感じられ講演内容についても良

く確認されていました。浅田先生が先輩である石井先生から文献,原史料の蒐集・研

究方法などいろいろなことを教わったと述べておられたのでその証かなと思います。

 米寿の祝いは1年前に済まされたとのことでしたが、今年の東京オリンピックを見

る前に旅立たれたのは残念でしたが新型コロナウイルスを知らずに逝かれたのは幸い

だったかなとも思います。弔文に替えて想い出としてブログ掲載としましたので浅田

ゼミ及び石井ゼミ関係者の方の目にも留まれば幸いです。

 

追記:当支部ホームページ左の索引末尾をクリックすれば浅田先生講演内容が見られ

   ます。また当支部ブログ2019年3月28日付「春節の祝い」も参照下さい。

                        支部長   足立泰秀 記 

 

 

令和2年の新年会を開催しました

 令和初となる令和2年の新年会は、1月18日(土)に逗子海岸に面したシーサイドイタリアン「カンティーナ逗子店」で、11時30分から開催しました。最近の新年会は開始が14時からでしたが、今回急きょ会場を変更したため11時30分~14時の時間帯になりランチ新年会としました。

 

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 総会と異なり来賓もなく会員と言っても役員と一般会員の顔馴染みのかたが殆どで、令和初の新年会としては特色もなく恒例の詩吟朗詠と明大応援歌斉唱のみでは寂しいので1月5日(日)の逗子葉山鎌倉寄席新年会落語会に来られていた池田雅子さんに太極拳披露のお願いを中山、足立で打診していました。1月11日(土)の役員会で正式に決定しお願いメールを入れ、快諾頂きました。息子さんが現役明大生でもあり、また神奈川県日本中国友好協会の広報部長・太極拳講師・楊名時太極拳師範と頂いた名刺に記されていました。 

 昨年11月の明大マンドリン倶楽部チャリティーコンサートは西日本豪雨災害にあった主として岡山県倉敷市真備町に復興支援金として届けましたが、真備町(まびちょう)は吉備真備(きびのまきび)ゆかりの地でした。

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          ( 倉敷市真備支所)     (中国西安にも立派な記念碑がある)

 吉備真備奈良時代、日本が中国(唐)を参考にしながら国家樹立を目指していた時代、20代前半で唐に留学、17年間に渡る滞在の後に多くの書物、楽器などを日本に持ち帰り朝廷の厚い信頼を得て活躍した低階級の学者で右大臣までなった人です。2度目の入唐の際には高僧鑑真を日本に連れて来ています。鑑真は密教天台宗の教えを日本に伝え、鑑真が来なければ空海最澄がここまで有名になることはなく、高野山比叡山もただの山になっていたかもしれないと言われています。

 岡山県吉備真備神田神保町前の書店主で日中友好協会創立者内山完造ゆかりの地で全国に先駆けて日本中国友好協会が出来た地でもあり今年設立70周年の慶節を迎えていて、この年の新年会に県日中友好協会の広報部長池田雅子さんに太極拳披露をしていただいたのも思い出に残ることとなりました。

 

 役員集合10:30、綾部・斎藤・鈴木(達)3氏で11:00受付開始、そして11:30より小川幹事長の司会で正月の箱根駅伝ラグビーの大健闘に触れた開会の辞となり、足立支部長の新年の挨拶がありました。

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 支部長からは、昨年のマンドリンコンサートの協力のお礼と義援金30万円を明大校友会岡山県支部を通じて倉敷の伊東香織市長に届けてもらった報告があり、また今年のオリンピック開催にあたり明大スポーツWEBに「東京五輪 明大関係者必見の注目競技」として活躍を期待できる選手の記事が出ていたとの紹介もありました。地元逗子高校卒の池田健星君(法3年ボードセーリング部)がセーリングRS:X級に出場することにも触れていました。柔道の小川雄勢君(平31卒)、卓球の水谷隼(平24卒)、丹羽孝希(平29卒)、森薗政崇(平30卒)の3君はテレビにもよく出るので良く知られているOBです。オリンピックでは明大関係者に注目して応援しようとの挨拶でした。 

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              ( 池田健星君   逗子海岸で  *地元の明大校友会で応援しているよ!!) 

 

 次いで恒例の敬老祝賀があり今年米寿の桐島さん、喜寿の三武、足立両氏の紹介があり記念品が渡されています。

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         (米寿の敬老祝賀の記念品を桐島さんに贈呈)

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    (足立支部長も喜寿対象のため仲内支部長代行から記念品を受ける)

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        (記念品は明大グッズのタオルとハンカチでした)

支部財政上、敬老祝賀の記念品(商品券)は廃止になりましたが、対象者で新年会出席

 者のみ新年会費で明大グッズ(1,000円相当)を購入し贈呈して共に祝っています。

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          (対象者を代表して桐島さんより挨拶)

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     (会場を間違えて遅れてきた三武さんに敬老祝賀の記念品贈呈)

      *会場変更の連絡不行き届きで申し訳ありませんでした。

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 (葉山マリーナに行ってしまいました。正式案内と会報記事良く見ていませんでした)

 セレモニーを終えて11:50から懇親会となり桐島さんの乾杯挨拶後、飲食歓談となっています。なお今回の新年会は参加者が30名と少なく、テーブルをコの字型にして全員顔が合せられるレイアウトとしました。この場所は日本酒、焼酎が無いので剣菱赤霧島いいちこ・そしてアルパカワインも持ち込んでいました。料理、酒はバイキングスタイルでしたので各自取りに行って歓談となりました。

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  メニューは下記でした

     マグロのカルパッチョ、 イタリア産プロシュートとミラノサラミ
     アオリイカとオリーブのマリナート、 新鮮野菜のグリーンサラダ

     ピザ マリゲリータ   ビアンケッティ

     真ダコと季節野菜のトマトソースペンネ
     鶏もも肉とじゃが芋のジェノベーゼカザレッチェ

     みやじ豚のフィレ肉のロースト、赤ワインソース

     デザート

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 頃合いをみて西山、菅野、田澤3氏による詩吟朗詠となり、プロジェクター担当の根岸さんがスクリーンに詩吟の映像を映すのを見て詩吟朗詠に耳を傾けています。石川丈山「富士山」、新島襄「寒梅」、中村草田男「降る雪や」の他に菅野さん自作の「逗子葉山の詩」もありました。

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       (田澤さんによる詩吟 石川丈山「富士山」)

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                             (西山さんによる詩吟  中村草田男「降る雪や」)

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      (菅野さんによる詩吟 菅野さん自作の「逗子葉山の詩」) 

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          (西山、菅野ご両人で合吟 新島襄「寒梅」)

 次いで先に紹介した池田雅子さんによる太極拳の型(八段錦・24式太極拳)披露がありました。音楽担当は鈴木(悟)にお願いし健康にいいと注目されている太極拳のゆっくりした筋力の動き、手足の形、深い呼吸を一同見守りました。

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 このあと暫くして個々に一言参加者の挨拶がありました。

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  順番が斎藤さんになって挨拶後にお座敷長唄「吾妻八景」と歌舞伎唄「越後獅子

 浜唄」のさわり披露もありました。

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         (挨拶後 唄を披露する斎藤さん)

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 (田澤さんの詩吟「富士山」を連想して吾妻八景の一 日本橋からの富士山を眺める

 この絵を思い浮かべた人がいた?) 

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 明大応援歌「紫紺の歌」「都に匂う花の雲」それにカラオケクラブで毎回締めで歌う「丘を越えて」をマンドリン倶楽部のCDの伴奏で合唱しました。その後、菅野・下里両氏の指揮で明大校歌を一同肩を組んで歌い、エールを送って仲内支部長代行の閉会の辞と一本締めで14:00終了となりました。 

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 (下里さんの顔にプロジェクターの光が当たっていますが必要な写真なので掲載)

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       (仲内支部長代行の音頭による一本締めで終了しました) 

 片付けをして参加者は“みぞれ”が少し降る中帰路となりましたが、20名程の参加者はJR逗子駅新逗子駅中間にあるカラオケボックスBAN BANに行って2次会となりました。

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 BAN BANにはお招きした池田さんも参加、ここではテレサテンの歌を披露していただき、普段聞かれない高橋、大川両氏の歌披露もありました。 

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  当日の写真は西山さん、鈴木(悟)さん、桐島さんにも撮っていただきました。

 

追記:支部長の挨拶に有る「東京五輪 明大関係者必見の注目競技」を検索して見て

   いただき、今年のオリンピックを一層楽しいものにしましょう。

正月は箱根駅伝とラグビー大学選手権の応援でした

1.明大は箱根駅伝予選会と決別

 昨年10月26日(土)の昭和記念公園での箱根駅伝予選会に西山、綾部、川﨑、小川、中山、根岸の6名が応援に駆け付けました。平成28年正月の箱根駅伝14位と8年振りのシード権落ち以来、4年連続予選会に回っていましたが東京国際大、神奈川大、日本体育大に次いで4位となり本戦出場を決めました。

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 昨年の予選会では筑波大が6位で26年振りに本戦出場を果たしたことと、名門の早大9位、中央大10位とかろうじて予選会通過だったのが印象に残った結果でした。

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 翌日開催された明大のホームカミングデーで山本佑樹駅伝監督からは「予選会は出たくない、スケジュール調整が大変」という強い意思表示の挨拶があったそうで、出席した西山、小川両会員も「明大は箱根駅伝予選会と決別」と受け止めたようです。確かに予選会のあと行われた全日本大学駅伝熱田神宮伊勢神宮)は15位と低迷でした。

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   ( ホームカミングデーで)    (2018年4月監督就任で今年の駅伝2回目)

 1月2日と3日は毎年恒例の箱根駅伝応援会で朝9時にJR逗子駅集合、藤沢地域支部の応援場所である南仲町交差点に合流して応援しました。なんと言っても東海大青山学院大東洋大、駒沢大、国学院大の上位5校は不動で前回5位の帝京大がどこまで頑張るかという状況の中、明大の今年の目標は良くて6位、最悪でもシード権は確保することでした。今年の1年生が4年生になるまでに3位以内に入り、第100回箱根駅伝迄には優勝する決意で臨んで欲しいと願っています。唯し他校は合宿所、グランドなどの設備が格段に良く有望な新人獲得に力を注いでいるのでこの面でも難しい環境ですが、山本監督からは「来年は有望な選手が入部する」と話が出ているそうです。

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 初日2日の往路エントリーは1区小袖(3年)、2区加藤(1年)、3区小澤(1年)、4区金橋(2年)5区鈴木(2年)でしたが、藤沢に来る3区は手嶋(2年)に変わっていました。1区2区とも10位で3区につなげ手嶋が順位を3つ挙げて7位、4区では9位で5区の山登りにタスキを渡しました。これまで明大は小田原迄は良くても山登りの5区で順位を大幅に落していましたが2年の鈴木が何と4つ上げて往路5位でテープを切りました。悪くてもシード権確保を願っていたので出来すぎの感があり、復路阿部(4年)を残しているので3日は期待も膨らみました。

 復路の当初のエントリーは6区坂井(3年)、7区村上(3年)、8区酒井(3年)、9区三輪(4年)、10区前田(3年)でしたが、全員変更になりました。山田監督が5位以内への思いを強くしたのではと思います。6区前田は5位をキープ、6区阿部は区間新で4位に上げ、8区櫛田(1年)が藤沢の応援場所に来てそのまま4位で9区村上につなげています。

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              (8区 藤沢の応援場所を通過する1年櫛田君)

 応援から逗子に戻り千登世寿司のテレビで最終の10区迄見て応援でした。村上も4位で10区河村(4年)に後を託しました。最終ランナーは他校とも強力選手を選んでいて1位青山学院大、2位東海大の順位は確定も3位から6位までが東京国際大、明大、国学院大、帝京大の4校がしのぎを削る状況となりました。結果は3位国学院大、4位は区間新を出して帝京大となり、5位東京国際大、6位明大となりましたが、3位との差は26秒で、往路9位だった早大は順位を上げて7位となりましたが、明大との差は2分57秒ありました。結果的に良くて6位の目標通りでしたが、あわよくば3位にも入れた状況でしたので出来過ぎの感がありました。

 予選会では4年生の故障で後輩が頑張ったことが良い結果を生んだようです。今年出場した選手は4年2名、3年3名、2年3名、1年2名でしたが、出場経験のある酒井(3年)を入れ来年は経験者9名が残り、今年期待されながらも出場しなかった1年の小澤や杉本もいて、これに有望な新人が加わり来年の箱根駅伝が楽しみです。

 5強に入っていた東洋大は往路11位から復路余り挽回できず総合10位と辛くもシード権は確保しましたが11年続いた総合3位以内が途切れています。

 

2.明大は3季連続ラグビー大学選手権出場  

 

 1月2日ラグビー大学選手権の準決勝があり、箱根駅伝応援組と別れて西山、仲内、小川の3名が秩父宮ラグビー場に駆け付けました。第1試合は早大対天理大で天理大は早大にチャンスを潰されラインアウトの連続失敗やハンドリングエラー等のミスで早大に14対52と大敗し、早大は6季振りの決勝進出を決め、平成20年以来16度目の優勝を目指すことになりました。

 第2試合が明大対東海大でした。東海大は明大のオフサイドの反則でPGを選択して先ず3点を先制しましたが、これから明大はFW,BKの一体となった反撃に出てその後、東海大に1トライしか許さず山崎、飯沼、射場、箸本の4トライと山沢の3G,1PGで29対10で勝利し昨年に続き2連覇をかけて新国立競技場での早大との決勝戦に臨むことになりました。

 

 1月11日は新年会を控えた役員会の日でしたが、ラグビー大学選手権のそれも明早戦での決勝戦ということで砂山、西山、仲内、小川の4名が応援で新国立競技場に初めて入りました。12月の第1日曜日は関東大学対抗戦全勝同士の明早戦となり明大が勝利していました。(昨年の対抗戦応援会ブログ参照)

 1昨年の明早戦で明大は破れたものの昨年の大学選手権では早大に勝って優勝しているため、相手チームに研究されて対抗戦での勝敗は関係ないというのが実情で早大も天理大で圧勝していることを考えると明大の勝利を望んでも勝敗はどちらに転ぶか判らない状況でした。外苑前駅から国立競技場まで大変な人の列で、30分くらい掛かり1時間少し前に到着しました。既にゴールポストの後ろや3階の自由席は超満員で凄い熱気に包まれていました。

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 我々は1層メインSS席正面左側のゴールポスト側、前から15列目の席に陣取りました。

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 左右の大型電光掲示板に明早それぞれの応援団の映像が映りその度に大歓声が起こります。

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 場内アナウンスが明早代わる代わる応援の小旗を振るよう号令をかけると6:4位で明治が多かったようです。グランドは360度大観衆に囲まれていて秩父宮より小さく感じました。またインゴールが10メートル位しかなく、これでは明治得意の山沢からインゴールにいる山村へのキックパスは無理だと思いましたが結果としてはやはり明早共そのようなパスは出ず、キックは高く上げバックスピンをかけてデッドラインを割らないようにしていました。

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 観衆5万7千人の中で14時30分キックオフで前半40分の試合が開始されました。明大は早々PGで早大(斎藤)に先制され、その後4トライを許しこれまでやってきたこと出せず0対31で前半を終了しました。前半後、田中澄憲監督から「後半は、1人1人がやるべきことをやっていないのでファンダメンタルをしっかり、ボールキャリアーが前に運んで欲しい」とのコメントがあったそうです。

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     (前半の雲山、トライにつなげられずも後半はトライを決める)

 後半は開始早々山村がトライを決め、早大にトライを奪われた後、箸本、山沢、山崎がトライを決めて明大の意地を見せ、その後早大に再度トライを奪われましたが、終了間近に雲山が後半5個目となるトライを決め後半は35対14でした。

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       (昨年FBからSOにコンバートした山沢のトライ)

 しかし前半の失った得点が大きく試合結果は35対45で早大の11年振り16回目の大学日本一許すことになりました。

 残念ながら我々は左サイドの席で、前半明治陣は右側で完璧に攻め込まれたので
我々の前で殆ど攻防はなく、後半はサイドが変わり早稲田陣が右側になったら明治が
圧倒的に攻め込み、これまた殆ど我々の前で試合をしませんでした。

 この試合は、中学時代から対戦してきた明大・山村(報徳学園)と早大・斎藤(桐蔭学園)の学生時代最後の試合でもあり、早大勝利で共に勝ち数が並び3月卒業することになりました。

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    (明大WTB 山村知也)          (早大SH 斎藤直人

 表彰式後、当支部応援者の目の前で早大の選手は全員が白いTシャツに着替え、大学選手権優勝の時だけ歌うことが許されている部歌「荒ぶる」を歌っています。

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 その間、明大チームは正面から時計回りに場内を回りすべてのファンに立ち止まって礼をしていましたが、正面左で早稲田が「荒ぶる」を歌っている後ろをうなだれて歩く姿は何とも寂しい限りでした。我々としてはは試合が終わればノーサイド精神が頭をよぎりますが、やはり「荒ぶる」を聞かされた”不運”と”屈辱”をしっかりと噛み締め来年のリベンジを誓いました。そのあとは3人で渋谷での残念会、帰りの電車の中もボックス席でつづきをやっています。

早大相良南海夫監督の談として「後半は明治が意地を出してくると思った。後半の40分もやってきたことを出し切って集中しようとだけ言い、笛が鳴るまでいくら点を取っても安心できなかった」

また明大田中監督の談として「早稲田は強かった。後半は反撃できたが前半がすべてだった」

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 なお後日談で、当日ダフ屋をあてにして新国立競技場まで行った“つわもの”がいましたが、チケットを入手できず、友人と飲んで帰り家でスカパーで後半だけ見て、やはり最初から全開していればとのコメントがありました。 

 

付記:昨年12月の明早ラグビー応援会の際に参加者に配布された資料の中に、明治と早稲田のラグビー部部歌の記述がありました。今回早大ラグビー部の「荒ぶる」が話題になりましたので、この機会に付記しておきます。

 

「明早両校ラグビー部の部歌について」 

明大ラグビー部の部歌“ルピコンの流れ”の歌詞を見ると、北島忠治監督を囲み岡野加穂留部長や部員が歌っているカセット映像が脳裏に浮かびます。岡野さんは当支部創立から深い縁のある方で学長を辞してから亡くなるまで当支部顧問に就任していただいていました。

 

1.明大ラグビー部の部歌 1926年に誕生しました。創部から4年目のことだったと記録があるそうです。

 

   ルピコンの流れ 勇姿を宿し 天山の嵐 将星をみがく

   知るや駿台 ラグビーの戦士 球蹴れば 空鳴り 球落つれば 地揺らぐ

   勝利は我にあり 勝利は我にあり 

バーシティー明治 バーシティー明治 バーシティー明治

 

ルビコン川は、イタリア中北部、ローマの北部を東西に流れる川で、紀元前49年のジュリアスシーザーがローマ内戦の時に、このルビコン川を南進し、レジスタンスとして立ち上がった話から、「ルビコン川を渡る」と言うのは、重大な決意の表れや後戻りできない決意のことです。

*天山の嵐~将星を磨くは天山山脈のことではないかと想像されます。天山山脈シルクロードに沿ったちょうど中国とキルギスカザフスタンの国境にあり、最高峰は7千メートルを超える。

*部歌の歌いだしから欧州~中国と来て、駿河台と繋がって行く。明治大学のグローバル度が伺えます。

*バーシティはvarsityのことで、代表チームとか一軍を表すが、varsity matchといえばOXフォード対ケンブリッジの試合のこと。いわゆる対抗(校)戦のこと。日本のvarsity matchといえば明治と早稲田の試合ではと思います。

 

2.早大ラグビー部の部歌 「北風」と「荒ぶる」の2つがあります。

「北風」

北風のただ中に 白雪踏んで 球蹴れば奮い立つ ラグビー早稲田

抜山の威力 蓋世の意気 男児の勢数あれど 

早稲田ラグビー ラララララ 早稲田ラグビー ラ

 

*北風に出てくる抜山蓋世という言葉は、中国の歴史書史記に記載され、日本でも項羽と劉邦でおなじみとなった項羽劉邦軍に四面楚歌作戦を取られ、敗退を覚悟した時に、虞美人に歌った垓下の歌の歌詞を引用している。項羽が自決して死んだのは、紀元前202年だ。ルビコン川の歴史よりも抜山蓋世の歴史の方が長い。

*垓下(がいか)の歌 : 力は山を抜き気は世を蓋う 時に利あらず騅(すい・愛馬)ゆかず 

騅のゆかざるをいかにすべき 虞や虞や汝をいかにせん

 

「荒ぶる」  作詞 小野田康一 作曲 早稲田大学音楽部

荒ぶる吹雪の 逆巻く中に  球蹴る我等は 銀塊砕く

早稲田のラグビーは 斯界になびき  いざゆけ我らが ラグビー早稲田

ララ早稲田 ララ早稲田   ララララ早稲田

 

*「荒ぶる」は1922年(大正11年)頃に試合前などに歌われる部歌「北風」に次ぐ第二部歌として作られた。作詞は早稲田OBの小野田康一氏(大正12年・卒)。戦後の混乱期は一時期忘れられていたのですが、1950年(昭和25年)度の主将であった松分光朗さんらが、ソプラノ歌手の三浦環氏に吹き込んでもらったレコードを小野田さんに聴かせてもらったところ、「早明戦に勝ったら歌おう」ということになり、試合前に練習して早明戦勝利後に歌ったことを契機として、大学日本一になったときのみに歌う伝統が生まれました。ちなみに歌の冒頭の「荒ぶる吹雪の逆巻くなかに」という一節は主将が単独で歌います。

そのときの最上級生のみ、冠婚葬祭のときにも歌うことが許される。それ故、優勝チームの下級生からは「自分の代でも荒ぶるを絶対歌います」という決意が異口同音に語られる。近年はフィールドに全部員・コーチ・OBが円陣を組み、主将の発声に続いて斉唱する。            

  • なお明治が野球の大学選手権で日本一になった時だけ歌う「神宮勝歌」という応援歌があります。昨年春全国優勝した時に選手と応援団が歌うのがテレビ中継されました。

(新年特別寄稿) “逗葉の寅さん”こと渥美 清さん              - - - 豊田茂紀- - -

 昨年 足立支部長から、以前,逗子に明大OBでラグビー部員だった“逗葉の寅さん”こと渥美 清さんがおられた話を聞き10数年前の小文を見せてもらいました。小文は次のような内容でした。 

- - - 逗葉地区の明大卒業の最高齢者は逗子四丁目の渥美 清(S9年商専卆)さん、堀内の神谷美喜子(S9年女子商卒)さん、小坪七丁目の柴田四郎(S9年政経専卆)さんの三人の方かなと思われる。

 渥美 清さんは逗葉支部の活動には一度も参加されなかったがご自宅に伺い上がりこんで閑談したことがある。最初から逗葉支部への参加を希望されなかったので行事案内は届けられていないが、それでも幾度かマンドリンコンサート等案内が行ったはずだが当時郵送だったため返信がないままだった。その後郵送を手配りにしてから逗子市逗子の四丁目は私の受け持ち範囲となり渥美さん宅に届けることになった。

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 逗子小学校の裏門側にある木造の山小屋風の建物に奥様と二人で住んでおられ家の修理も自分でしておられるほど元気な方だった。ともかく中へ入れというので遠慮なく板の間の部屋に入ると直ぐ酒の一升瓶を持ってきてコップに注いでくれた。酒が健康の元のような方で脇で掘りコタツのような所に奥様がおられたが足が不自由らしく耳も遠いようで、渥美さんが奥様の世話をされているようだった。大学時代はラグビーをしていたとのことで昼間から酒を飲んでラグビーの話をして、また逗葉支部の活動等話した記憶がある。S9年卆なので入学したS5年(1929年)は北島忠治氏が監督なった年で以後4年間薫陶を受けたことになる。逗子開成延命寺の神田宜圓住職と一緒だったのでよく寺に行って話しをしているとのこと。また息子さんがテレビ局にいて新人女優の売り出しに今一生懸命になっているという話になりその女優の卵の写真を見せてくれた。帰りに黄色のTシャツを土産にもらっている。これは一度着たがサイズが合わなかったのでしまっておいたもので合えばやると言うので着ると丁度良く貰ってそのまま着て帰った。長い間の痕跡か一部よごれがありで妻が洗ったが取れなかったようだ。このため処分してしまったのを後で聞いたが後の祭で思い出の品も無くなってしまった。

 その後会報を届にいったがドアが板で斜めに打ち付けられていた。近所の人の話では奥様が亡くなられた後、鎌倉の息子さんの家に移られたとのことで逗葉地区の最高齢者は一人減ってしまった。- - -

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第30作“花も嵐も寅次郎”のマドンナ役は田中裕子さん (明大卒)でした。

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    ( 渥美 清さんは風天の俳号を持ち、『ただひとり 風の音聞く 大晦日

  の句を残しています。- - - 風天 渥美清の歌- - - より)*西山さん情報

 

 私は高等学校のラグビー部監督をしていたこともあり、この話を右から左に聞き流してしまうわけにはいかないので、手元にある「ラグビー早明戦80年」(ベースボール・マガジン社)で調べてみた。 

 第10回、通算早稲田6勝 明治4勝の個所に渥美さんが出場した記録がありました。東京帝大と東京商科大の2試合に14番右のウイングとしてです。 

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 試合経過はありませんがスコアでは渥美さんが東京帝大戦で1トライを上げています。当時のトライ点数は今とは異なります。6人が14トライ(1人がNO8,それ以外の5人はすべてバックス)で上げています。64vs5で明治が東京帝大を、同じく89vs0で東京商科大を破っていますが、この試合のトライが記録されていません。

  当時の明治の部員は約80人で現在のように負傷交代とか戦術交代はありませんでした。負傷退場すればその分、少ないメンバーで戦う時代でした。リザーブの選手を置くようになったのは明早戦で言えば1976年の第52回からです。通算10回目の明早戦が戦われた1932年(S7)年、公式戦13試合に出場した部員は19名だけですから渥美清氏が早稲田戦や慶応戦に出場されていなくとも素晴しいと思います。

 公式戦13試合とは五大学リーグ戦(慶応・早稲田・東京帝大・明治・立教)4試合とそのほかに明治が戦ったのは東北帝大・法政・日本・文理大(東京文理科大=現・筑波大)・東京商科大(現・一橋大)でした。さらに関西の京都帝大・同志社立命館と東西大学対抗戦を戦い、もう一つ学士クラブ(どういう組織か不明)とその前年を含めて同クラブと二戦していますが、その前後をみてもこれだけ。なお同クラブと早稲田は一戦もしていない)。2年後、五大学リーグは、力を付けてきた法政大・東京商科大を含めて7大リーグとなりました。渥美 清さんはこの年3年生とありますが1年、2年・4年次に、出場試合はありませんでした。出身中学も対早稲田戦のメンバーについては1名を除いて記録がありますが他の試合についてはありませんでした。「ラグビー早明戦80年」(臙脂と紫紺の記録)だからでしょう。渥美 清さんは明早戦が大変な人気を呼び始めた頃の部員だったのです。

●●● S7年主将は逗子と同じ呼称の都志(づし)悌二氏でした。都志主将は岡山県倉敷市出身で昨年暮れ明大マンドリンコンサートの義援金を伊東香織倉敷市長にお渡ししたことが頭をよぎります。インターネットに偶然にも都志悌二「敵陣深く紫紺の軌跡」と題しS7年の試合が残されていて豊田さんの指摘の試合の出場メンバーも載っていました。渥美 清さんの名もあります。●●●- 

 また「ラグビー早明戦全記録 日本ラグビーの華 早明戦60年の熱闘譜」(ベースボール・マガジン社)に次の記載があるので紹介しておきます。

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            ( 渥美 清さんが出場した65,000人収容の神宮外苑競技場 )

(昭和7年)12月4日- - - 早稲田は同じく全勝の明治と天下分け目の対決を迎えた。神宮競技場は満員札止め。新聞は史上最高の4万人と報じた。- - -(ここから試合経過が詳しく述べられている)- - -この日、神宮球場は11時開門会前から延々長蛇の列。秩父、高松両宮、同妃、竹田、北白川両宮がご観戦になり、リンドレー英国大使なども列席。「メイジ」「ワセダ」の叫びがわきおこり「拍手以外の声援お断り」というラグビーの不文律も破られるほどの熱狂振りであった- - - 。 

 当日のキックオフは翌日の東京朝日新聞(「朝日新聞で見る ラグビー早明戦の歴史」2002年11月発行)によれば「四日午後二時三十五分」であり、3時間以上も前から4万人の観衆が押し掛けたとなっています。当時の両校の学生総数を大きく超え、またスポーツへの関心度、メディアの発達度、競技場へのアクセスを考慮すれば社会全体の注目度は現在の比ではないと言ってよいでしょう。ラグビー発祥の地、英国駐日大使が観戦したなどは他にあったのでしょうか。

 *逗葉の寅さんが観た明早戦

 1年生時 (昭和5年)ミスもあり得点なく後半29分を迎えた。ここで⑨松原の左にパント、⑪鳥羽が球を捕らえ、相手FBのディフェンスは手先が触れただけでライン際を走り抜け中央にトライ。⑦知葉のコンバージョン決まり5-0と早大を無得点に抑えて対早大連勝を飾る。

 2年生時(昭和6年)明大は東大戦を残すものの史上初の全勝対決となった。明大は前半10-0とリード。後半早大は英国の国際試合のような深いTBラインで臨んだが、「ゆさぶり戦法」は未完成で、BK長尾、知葉がトライを上げたものの強力な明大FWの前に33-8と圧倒された。特に笠原のキックは威力を発揮。明大は、東大、京大も破り初の全国一。

 3年生時(昭和7年)2年連続の全勝対決、第一次明早時代の到来。新聞の展望記事では、明大について「超人的馬力を発揮して東西の大学を押しまくり、名FB笠原がヴェルダン要塞の如く不落の堅陣を張っている」と評した。試合は明大が後半10分、岡のトライで12-13と1点差に迫ったところで最高潮を迎えた。10分後早大林が右中間に独走トライ、以後1トライ1PGを加えられ12-24で5年振りに早大に敗れた。早大は関東初制覇。

 4年生時(昭和8年)関東五大学は、昨年の東京商大、法大の躍進で、二大学を加え七大学リーグとして覇権を争うことになった。明慶戦が予定されていた1112日に皇室の葬儀が行われるため延期され、早大の最終戦が明大のシーズン3試合目という変則日程となった。6-8で早大に連敗した。

    明治は早稲田と正式な定期船を組むようになった大正12年(1923年)から5年間は全敗。昭和3年から4戦4勝。そして迎えたのが人気を呼んだ第10回目の明早戦だった訳です。 

 明大ラグビー部は昨年大学選手権で日本一になり、その後も好調を続けシーズン終盤の慶大、帝京大早大の3試合で計3トライしか許さずに秩父宮での最後と思われる明早戦を締めくくっています。

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 新たな年を迎え大学日本一連覇を願うと共に、昨年暮れ映画「男はつらいよ お帰り 寅さん」が上映となり、また新年早々、NHKのBSプレミアム「贋作(がんさく)男はつらいよ」が1月5日〈日)20時から始まることもあって“逗葉の寅さん”ことラグビー部OBの渥美清さんにつきブログ掲載しました。 

 昭和7年明大ラグビー部員として神宮外苑競技場に出場していた渥美 清さんは、新国立競技場や今の明早戦を観たらどう思うのでしょうか。 

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                    (2019年12月21日開場式前の新国立競技場を背に)

      - - -  寅さんのタ行で始まるのは田澤さん(前列右端)のみ  - - -

 大学日本一を決める 第56回大会決勝は2020年1月11日(土)に新国立競技場で行われると発表されています。明治・早稲田が 勝ち上がり決勝対決が実現しました。明治は3季連続で決勝進出し2連覇に王手をかけ、また23年振りの明早戦決着となっています。伝統ある明早戦の楽しみがまた増えました。 

 記事の一部分(●●●部分)は足立支部長に追記していただきました。 (豊田)