2020/01/10背景変更 裕次郎灯台

明治大学校友会逗子葉山地域支部創立30周年記念ブログ(2)-明大マンドリン倶楽部演奏会との縁ー

*当支部の活動のなかで何と言っても草創期にはマンドリン演奏会が中心でした。

お花見会・森宅バーベキューの集い・忘年麻雀会での会話は必ずマンドリン演奏会の話になりました。逗子葉山地域で第1回明治大学マンドリン倶楽部演奏会を行った際の準備状況について臨時総会で報告された記録が残っているので今回はマンドリン演奏会についてこの記録から記すことにします。 

 

 

1.第1回明治大学マンドリン倶楽部演奏会の準備経過報告の記録

     - - -  平成5年4月24日(土)石渡薬局2階で開催した臨時総会にて   - - -

 校友会逗葉支部創立を記念して来る5月23日の日曜日に第1回明治大学マンドリン倶楽部演奏会を行うための準備をすすめておりますが現在迄の経過につきご報告申し上げます。

1)まず「明治大学マンドリン倶楽部」の演奏会の開催につきましては、全国よりその要請が多く、横須賀支部では、支部設立の歴史から毎年恒例としておりますが、三浦支部では過去1回のみ、隣町の鎌倉支部では、まだ1回も開催していない状況です。新しい支部で、しかもまだ大学の正式な校友会支部として承認が下りていない中、この5月の若葉もえる最高の時期に演奏会派遣を承認されたということはラッキーであった陰に、この誘致に対し会員の五味敬明様の並々ならぬ大学当局への働きがけが有ったことと推察されこの場を借りて厚くお礼申し上げます。また当支部にはマンドリン倶楽部OBの長沢和彦様と稲村茂様がおられ心強く思っております。

             (後に瀬川昇様もOBであることが判明しました)   

 

2)次に昨年11月支部創立の際に既に演奏会開催と日程については内定がとれておりましたのでその後の大学当局への手続きと開催にあったっての準備についてご報告いたします。

①大学当局への開催申請につきましては、まだ校友会逗葉支部が承認されておりませんので初め鎌倉支部の名前を借りることも考えましたが、その後の調査から一般団体としての「明治大学逗葉駿台会」名として申請が可能と判り、今年2月8日付で会長大貫宏、責任者大川謙一の名で明治大学学生部長宛に派遣願を提出し2月23日付で学生委員会で承認された旨の通知を受けております。

 なお演奏会の会場につきましては逗子・葉山地区の場所としては逗子開成学園記念講堂と葉山町福祉文化会館があげられ早くから両方5月23日日曜日を予約しております。逗子開成学園については学校側の決めで学校行事が決まらない段階で半年後の予約は出来ないとのことでしたが船津様の熱意とご尽力で予約していただきました。一方葉山町福祉文化会館については森様の葉山開催の強い希望で予約していただき、逗子に決定した後もつい先日まで予約を入れたままにされていたと聞いております。会場、収容人数では葉山が良く、聞きに来る人の交通の便ではやや逗子が良い。環境では潮騒が聞こえる開成学園と山あいの葉山町福祉文化会館とそれぞれ特色の違いは有りますが、結論として第1回目として校友会会員の拡大をねらい目として電車徒歩でも来れる逗子開成学園記念講堂と致しました。

②演奏会の内容につきましては、マンドリン倶楽部より当日の曲目プログラムが送付され、またマネージャーの関口光信君に演奏会場を既に視察してもらっています。当日は大型バス1台、トラック1台で学生50人が来る予定になっております。

③演奏会の運営につきましては、校友会厚木支部三枝副支部長様と仲野事務局長様より懇切なるご案内をいただき、プログラム等参考にさせてもらい、逗子葉山地区の特色を入れて当支部のプログラムを作成中であります。

④なお予算につきましては、この演奏会がチャリティーコンサートとして位置付けておりますので支出は逗子及び葉山の社会福祉協議会への寄付30万円を含めて200万円と見積もっております。この費用につきましては入場券の販売とプログラムへの広告料でまかなう予定で入場券は1枚2,000円とし、広告につきましては既に50あまりの各法人から広告料をいただくことになっております。

 

⑤さて5月23日の演奏会につきましては逗子開成学園記念講堂の収容人数が350名ほどを前提に昼の部1時30分開場・2時開演、夜の部5時30分開場・6時開演とし、それぞれ曲目の合間に逗子市長と葉山町長に寄付金を受け取ってもらう予定にしております。入場券につきましては収容人数に幾分歩留まりを加味した800枚ほどの印刷手配を行い3月6日に完成、引き続き3月27日にポスター60枚を完成させ市中に掲示するとともに、この会場の石渡薬局様他3ヶ所に入場券の販売店をお願い致しました。

 

 

⑥また広告につきましては、演奏会のプログラム案を3月6日に作成しこれをもとに広告掲載のお願いを金融機関、各医院、スーパー、商店、飲食店等に開始し、今日迄ほぼ予定の予算枠を確保した次第です。

⑦当日は校友会逗葉支部の創立記念でもあり校友会の会員を増やす趣旨から会場受付の一角に校友会コーナーを設け創立準備から演奏会までの経過を掲示し新会員の登録と併せ明大ヨット部からの出し物等、色々思案中ですので良い案が有りましたら幹事にお申し出いただくか、または直接参画いただければと思います。打合せは逗子銀座商店街串焼きクローブで公演開催までは毎週土曜日3時より集まって行っております。

 

⑧最後になりましたが、昨年11月より今日までの過程で本日出席されておりませんが大学関係者として現在病気療養中ですが葉山に斉藤正直元学長がおられ、また現職教授として鈴木享子教授、白石四郎教授、由井武夫教授、浅田毅衛教授の4名の方がおられることが判りマンドリン倶楽部演奏会のご案内を差し上げております。また逗子葉山地区早稲田大学慶応義塾大学の校友会並びに明治大学校友会横須賀支部及び鎌倉支部にご招待券を差し上げております。

 

本日の臨時総会には新たに会員と思われる方々にもご案内を差し上げましたが、その中で大先輩である昭和14年法学部卒の安東重季様にご出席いただいておりますのでお礼申し上げると共にご紹介し、これまでの経過のご報告とさせて頂きます。 

                           平成5年4月24日

 

 

  (葉山開催は森さんの熱望もあり第2回開催は葉山第1回コンサートとした)

 

*当支部創立発起人の一人に明治大学マンドリン倶楽部OBの方がおられ、又草創期支部活動に参加された方にも同倶楽部コンサートマスターをされ方がおられた。逗葉地区での明治大学マンドリン倶楽部チャリティーコンサートが開催され、学生時代を思い出してお手紙を頂いた同倶楽部OBの方もおられた。支部創立30周年記念祝賀会にマンドリン倶楽部OBの方6名の演奏をたっぷり耳にしながらこれらの方のことが脳裏に思い出された。残されていた記録をブログ掲載します。

 

2.新入生歓迎会で初めてマンドリン倶楽部と出会う   昭和48年卒  稲村 茂

                             (発起人会の一人)

 明治大学入学式後の新入生歓迎会で初めてマンドリン倶楽部と出会う。華麗なマンドリンの音色と繊細でかつダイナミックな演奏に魅せられて入部を決意。早速部室を訪れた。上級生は一応歓迎してくれたものの、「入部テストがある」と聞き、大きなショックを受ける。テストは教則本にある数十曲の中からテスト当日に指示され一曲を古賀先生をはじめ、上級生全員の前で独奏するというもの。

 約2か月間、上級生の指導を受け、練習を重ねて、一応自信をもって臨んだが不合格。3度目にして晴れて合格となる。正式部員としての活動がスタートしたものの、とにかく厳しさ、辛さの連続であった。礼節と規律を重んずる伝統ある倶楽部ゆえ、上級生の指示、指導の厳しさは格別であった。辛いものの最たるものは、春夏の合宿であった。睡眠時間は平均3~4時間、弦を押える左手指には硬い豆ができ、痛さを通り越した練習量であった。そのほか演奏旅行は全国津々浦々におよび、当時は学生運動が盛んな時期で大学もストに突入していたためか、連続20日間のハードスケジュールであった。出発前は旅行気分で楽しみにしていたものの、見事にあてがはずれてしまった。夜行列車での徹夜に近い写譜、楽器運搬、会場でのステージ設営と、下級生はまさに体力勝負であった。ステージ衣裳兼作業着である学生服には汗から塩と化した白い線が幾重にもにじみ出ることしばしばであった。

 25年も昔のことであるが、振り返れば大変なつかしい想い出である。辛い想い出ばかりでなく、もちろん楽しい想い出も沢山ある。当時培ったマンクラ精神は、社会人である今でも心の支えであり、倶楽部員であったことを誇りに感じている。改めてご指導いただいた古賀先生をはじめとする諸先輩、そして苦楽を共にした同僚に心より感謝申し上げる次第である。当時使っていた楽器とレコーディングしたレコ―ド盤は家宝として大切にしている。古賀先生の教え「音楽は和なり」のもと、明治大学マンドリン倶楽部の限りない発展を祈念してやまない。

       横浜市西区みなとみらい3-1-1 横浜銀行 支店部 稲村 茂

 

                 (このブログ掲載は転居先が判った稲村 茂様よりご了解を得ています)

(残念ながら料金後納郵便で消印無く年月不明ですが、文面から卒業して25年と有るので平成9~10年頃で支部創立5周年に際して郵送されたのではと思える)

 

 

3.マンクラの元コンサートマスター長沢和彦さん 雑記  昭和42年卒 足立泰秀

 

 昭和35年仏文科卒の元幹事故長沢和彦さんは紀子夫人と夫婦そろって支部草創期よく行事に参加されていた。平成5年4月24日に逗子の石渡薬局二階で臨時総会を開催したことがあるが、この時私が長沢和彦さんに会った最初だった。この総会は5月に開催する逗葉地区最初の明治大学マンドリン倶楽部チャリティーコンサートの準備状況報告とOBの校友会参加拡大が目的だったが、参加された長沢和彦さんから逗子開成から横高に移り明大ではマンドリン倶楽部のコンサートマスターをされたこと、横須賀米が浜で「ウタック弦」というスナックをされているとの自己紹介があり、マンドリンコンサート成功のため尽力したい旨の力強い話があった。

 平成6年1月12日葉山上山口にあるピアノレストラン“マイファニー・バレンタイン”で新年会を行った事がある。この時船津、五味、森、鈴木敏雄の各氏が夫人を伴って参加され長沢和彦さんも紀子夫人と一緒に参加された。白いピアノの演奏を聞いて懇親を深めた後、二次会として20名程が「ウタック弦」に押し掛けている。店には長沢和彦さんのギターが置かれ壁にはフランスでアラン・ドロンと一緒に撮影された写真が掛けてあったのが記憶に残っている。

 

   長沢和彦(後列中央)・紀子(中段左)夫妻に五味敬明夫妻も参加した懇親会

 

 

                                ウタック弦にて(後にアラン・ドロン写真)

 

 多くの会員が署名している校友会逗葉支部創立記念旗があるがこれには“昭和34年(35年の誤りか)仏文科マンドリン倶楽部卒 長沢和彦”と横に“ウタック弦 長沢紀子”の署名が残されていてご夫妻が支部草創期から参加されていることを物語っている。

      明治大学関係者と他大学校友会の方々に混じって

      「明り庵」岡田恵子氏、「ラスト倶楽部」清水礼子氏の署名もあり

       クローブや万紫味の良く利用した店の名前もある 

 

 残念ながら若くして亡くなられたが和彦さんとの出会いについて紀子奥様から情熱的な出会いの克明なお手紙をいただきました。和歌山県での明大マンクラ公演の際に出合い、お寺の娘でしたが和彦さんと結婚しましたとのことです。私が在学中だった昭和30年代後半~40年前半の頃は学生がサークルで地方に行くと東京から明大の学生さんが来てくれたということで旅館に泊まっても大歓迎してくれた時代で、まして明大マンクラ部員の場合は特別な思いを持って迎えられた時代だったと思います。外地に長期出張していた時に森英二先輩から長沢和彦さんの訃報を電話で知らされ、マンクラ時代の事をもっと聞いておくべきだったと悔やまれましたが、その後カラオケクラブに参加された紀子奥様からマンクラ時代の友人だった佐伯亮さん(コロンビアレコードの作曲家・編曲家)のこと等聞くことがありました。

 

 

4.昭和二十年に入部したマンドリン倶楽部を偲んで  昭和23年専法卒 瀬川 昇

 

 逗葉駿台会も三年目を迎え、益々その内容が充実して参りました事は誠にご同慶に存じます。会の主要行事の一環として毎回マンドリン倶楽部をお招き頂き、OBとして厚く御礼申し上げます。

 私が明大に入学したのは昭和二十年で、八月十五日の終戦により学徒勤労動員は解除され、九月から授業が開始されました。同時に部活も復活し、憧れのマンドリン倶楽部に叔父から譲られたカタニヤを抱えて入部しました。部室は本館の地階に在り、オデルの教則本を基に先輩から指導を受けるのです。その一巻の途中まで習得するとテストがあり、パスすると正部員になり、Ⅿ.U.Ⅿ.C.のバッチと指輪が貸与されるのです。その時の嬉しかったこと。

 それでも直ぐに演奏会に出られる訳ではなく、猛練習が続くのです。昭和二十一年に共立講堂で開催された復活第一回定期演奏会では雑用係でした。舞台に出られるようになったのはその後のことです。授業をさぼって、神田日活(現在はタキイ種苗売店になっている。)で「カサブランカ」を観たのは此の頃です。一番印象に残っている演奏会は昭和二十二年一月に開催された日比谷公会堂の舞台です。この主催は朝日新聞社だったと思いますが“100人によるマンドリンオーケストラ”と銘打ったもので、東京六大学マンドリン倶楽部の共演に早稲田と共立女子大のコーラスが賛助出演する大掛かりなものでした。独唱は斉田愛子さん、指揮は慶応の常任指揮者服部正さんでした。

 当日の曲目の中で「ムーア人グラナダ」のトップは明大が担当しました。当時の私のパートはマンドリュートでした。卒業後、社会人の倶楽部に入ってからも「ムーア人グラナダ」を弾く機会がありますが、その度に五十年前を思い出しています。私事で恐縮ですが、現在、芋花育種の適地を求めて千葉へ転居する準備に追われています。折角、入会させて頂いた逗葉駿台会ですが大したお役にも立たず申し訳なく存じております。逗葉駿台会の益々の発展を心から祈念しております。      (小坪にて)

 

  (瀬川様には消息不明と昭和23年専法卒と高齢のためブログ記載の

                     ご了解は敢えてしておりません)

   

(注記)当 明治大学校友会逗葉支部は当初明治大学逗葉駿台会の名称のもと会則等を作成、明大マンドリン倶楽部チャリティーコンサートも第8回まで主催を明治大学逗葉駿台会としていた。当支部の名称は創立総会で明治大学校友会逗葉支部として以降、校友会の組織改革で明治大学校友会逗葉地域支部となったあと現在の明治大学校友会逗子葉山地域支部と改名して現在にいたっている。支部旗は3種頂いた。各クラブは独立制の意味合いから逗葉駿台会・・・クラブとしている。

 

 

5.明大マンクラの大先輩竹岡信幸夫人を訪問 雑記   昭和42年卒 足立泰秀

 

 明治大学マンドリン倶楽部の大先輩というと倶楽部OBでない私でも古賀政男(Ⅿ37~S53)、竹岡信幸(Ⅿ40~S60)、清水保雄(Ⅿ43~S55)の3人がまず頭に浮かぶ。

 古賀政男亡き後を受けこの倶楽部を指導したのが逗子に住んでおられた同倶楽部OBで作曲家でもあった竹岡信幸氏でした。又現在同倶楽部を指導している作曲家甲斐靖文氏は竹岡信幸氏に多くの薫陶を受けマンクラの伝統を受け継いでいます。

 記録によると-、平成5年11月6日の黒沢溪副支部長宅で第1回手打ちそば会を行なった際、斜隣りが故竹岡信幸さんの家であることが判り、間もなく みさを夫人を訪問しています。玄関を入るとすぐ縦長の大きなポスターガ目に入ってきました。映画となった「赤城の子守唄」のポスターで夫人の話では現存するものは殆んどないようです。また応接間のサイドボードには昔のレコードが飾ってありましたが、これは「支那の夜」のレコードの原版でヒットの痕跡を留めるべくかなり磨り減っていました。

 心臓にやや障害をお持ちの夫人でしたが若い頃からと思われる気品が漂い、話上手で昔の事を良く覚えておいででした。それまで知らなかったのですが奥様はロサンゼルス五輪の水泳代表選手で女性初の金メダルに輝いた前畑秀子さんと一緒に参加されていて当時の写真も飾ってありました。その後宝塚から映画女優の道を選ばれ芸名“横田みさを”さんでした。竹岡信幸さんは大学卒業後、古賀政男さんと同じくコロンビアレコードに入られ、多くの作曲を手掛けられ、島倉千代子さんが歌った「東京の人をさようなら」等も作曲されていました。80歳近くまで逗子に住んでおられたので当支部創立が10年早かったら直接お会い出来て、マンドリン倶楽部の事をお聞きすることができたかなと思います。事務局の訪問が嬉しかったようで後日奥様から“おたより”もいただきました。だいぶ年月が経った後、明早ラグビー観戦会の前に古賀政男音楽博物館に寄って木製の竹岡信幸さんの肖像をみています。

 

 

*なお竹岡信幸さんが亡くなった後の葬儀に参列した元葉山にあったレストラン・カウベル 中村良夫氏より寄せられた記録があり「逗葉支部十年史」に掲載されましたが、ここに再度掲載致します。

 

 

6.竹岡信幸先生の葬儀に参列して    レストラン・カウベル 代表 中村良夫

 

 ついこの前だと思っていたのに、もう10年もたっていたのですね。東京の教会での葬儀に妹(元コロンビア専属、浜百合子)と一緒に参列して準社葬の様な葬儀にびっくり、そして明大応援団の若者が大きな重い校旗をしっかりと捧げていた姿にびっくりしました。その驚きとは、10数年もの永い間、公私共に親しく師事していたため、よく見えなかった先生の偉大さに驚かされた事です。コロンビアレコードに与えた影響力の大きさ、元マンドリン倶楽部会長としての存在の大きさ、名誉ある卒業生に対する母校の敬意の表わし方、そして明大マンドリン倶楽部に対する処遇の大きさに感動したのです。

 「ヨッチャン、今夜ね、古賀さんの後を継いで4年後輩の僕がマンドリンクラブの会長をする事になったヨ」普通の会話の様に話していた事がこんなに重大なものとは全く気付きませんでした。ある本の著者は見た目「銀行員の様な人」又ある評論家は「竹岡氏はホームランバッター」と書いてありました。エピソードは沢山ありますが、その1つに“いとしの妻は泣くじゃない”で始まる名曲「人妻椿」をリバイバルして再ヒットさせたあるグループが、放送で少しふざけて歌ったのを聞いてすぐ抗議の電話をしました。自分の作品をとても大切にしていたのです。反面、私が「下田夜曲」をラテンのアレンジで歌いたいと申し出たところ、「それは面白いアイデアだね 出来たら是非聞かせて欲しいね」と新しいものに意欲的な面もある方でした。夜もの3部作として「支那の夜」、「東京の夜」他、子守唄ものとして「赤城の子守唄」、「悲しき子守唄」他、本当に沢山のヒット曲(ホームラン)がある中から妹は「東京の人よさようなら」を好んで練習曲にし、愛染かつら主題歌「悲しき子守唄」を2度のテレビ映画主題歌としてリリースさせて戴きました。私もコロンビアレコードの専属になりましたが、今は先生のお許しを得て歌唱を指導しております。

 先生に歌と作曲を師事したことが、今多くの人のために役立っております。今でも端正な上品な先生が笑顔で「やあ、ヨッチャン いらっしゃい」と迎えてくれそうな気がします。先生に知り合えた事を誇りにしています。(ちなみに名曲「赤城の子守唄」は、明大マンドリン倶楽部現役生の時に作られた事はあまり知られておりません)

- -平成9年7月6日葉山で開催した第4回コンサートプログラムに掲載もしました- - 

 

(この記事は既に第4回コンサートプログラムにも寄稿いただいて掲載済の為、

             このブログ掲載にあたってはご了解と判断しています)

 

 

7.サークル活動の中の学生・マンドリン倶楽部    政経学部教授. 中野渡信行

 

 <記載にあたり> 学生の頃手にした「季刊明治20」(S41年7月発行)にお世話になった木下勇商学部教授の記事が掲載されていたので捨てずに残っていますが、たまたまこの20号に中野渡信行政経学部教授が「サークル活動の中の学生・マンドリン倶楽部」と題して記事を掲載していました。私の在学中の昭和40年度の活動を克明に紹介していて、長沢和彦さんは卒業後、稲村茂さんはこれから4~5年後に入部されたと思いますが学生の1年間が判る内容なので参考に記しておきます。- - -  

 

(「季刊明治20」政経学部教授. 中野渡信行氏の記事より一部抜粋)i

 明治大学マンドリン倶楽部の昭和40年度の活動状況の中から主なものをあげてみても、地方演奏が実に多い。2月20日頃から1週間、伊豆の春季合宿、これには同部の先輩の古賀政男氏や清水保雄氏、甲斐氏その他の人達が指導に参加されている。2月28日から、宮崎。鹿児島の各県、そして沖縄における演奏旅行約一週間。それから九州の各地、中国地方から大阪を経て四国各地、近畿、中部地方演奏旅行して、やっと3月9日に帰京しているのであるが。4月5日に明治大学新入生歓迎会に出演。それから7月の夏休みまでは、毎週土、日に東京やその近郊での演奏、レコ―ディング。そしてこの倶楽部春の一番大きな催物である春季定期演奏会(第76回)を司会は先輩の下平源太郎氏が受け持って、古賀氏、清水氏や他の先輩の指導で絢爛たる演奏会を催している。7月2日から1週間、長野県白樺湖畔のホテルで前述の各先輩の指導を受けて合宿練習。11日から関東各地、中部山岳地帯の各都市、そして東北、北海道では釧路を最後に9月11日帰京。10月9日にはフジテレビ小川宏ショーに出演。11月1日~3日は明治大学駿台祭、全明治音楽祭、六大学演奏会。13日は“秋の饗宴”ともいうべき秋季定期演奏会(第77回)が先輩のもと一層の華々しさを加えて開演されている。その後も数回の演奏旅行があるが、この活動状況を見てそのエネルギッシュなのに驚かされる。毎年のスケジュールなのである。 - - -(一部省略) - - -

 私は明治大学青森県人会の会長となっている。八戸市では昼夜二回の演奏、青森市では朝の内疲れを見せないマンドリン倶楽部諸君が社会福祉関係を慰問された。こうした忙しい時間のあいまをみては、全国各地で慰問されているとのことを聞いて、この美しい行為を誰にもあまり宣伝がましい素振りもせずに地方演奏を続けている、この倶楽部の諸君に心から敬意を表したのである。

 

- - 中野渡様は既に故人となられ当支部発起人会の一人白石幸子さんのご主人白石四郎氏(元政経学部長)は中野渡氏の弟子で弔文を寄せられていました。

                                                                  記載に当たってご了解の代りに紹介です- - - 

 

 

8.明大マンドリンの旋律             S37年法学部卒 甲斐靖文

<掲載にあたって>

 ここまで書いてくると現・明大マンクラの常任指揮者甲斐靖文さんについて掲載しないわけにはいかないと思う。多く残っていて廃棄の運命にあるる明大マンクラの記録の中に平成23年(2011年)日本経済新聞の文化蘭に掲載された甲斐靖文さんの記事(西山隆治さんより)があったので、ご本人にお断りしてはいないが、昨年11月6日〈日〉幕張で開催された明治大学マンドリン倶楽部創部百周年祝賀会に当支部長として参加してお会いし、当支部の過去のプログラム記事に原かおりさんと共に署名を頂いた(先のブログに掲載済)縁もあり、また12年も前の記事でもありお許し頂けると思う。

 平成18年12月3日(日)明早ラグビー観戦会の前に参加した13名が和泉校舎近くの和田堀廟所を訪問して古賀政男さんの墓を参拝したこともありました。

  (写真撮影の川崎さんと“すなっく舞”のママを入れて13名が古賀家墓参をしました)
  (前列右から2番目の故西山隆治さんは多くの明大関係の新聞切り抜きを届けてくれ

    ました。自らは支部行事の写真記録係でした)

 

〈甲斐靖文氏の12年前の新聞記事〉

 明治大学マンドリン倶楽部(マンクラ)は1923年創立と日本屈指の伝統を誇る学生オーケストラだ。私は恩師の古賀政男先生の後を襲って音楽監督・常任指揮者を務め、今年で40年目になる。

<衝撃だった大分公演>1972年のある朝、古賀先生から電話だかかってきた。「すぐ来てほしい」。先生の家に出向くと、数人の学生も一緒に待っていた。「おれの後を継いでマンクラの音楽監督になってくれないか」と頼まれた。私は当時32歳。日本コロンビア専属の作曲・編曲家として活動し始めて5年がたっていた。勉強中の若輩者だからと一度は断ったが、先生の強い意志に「わかりました、おやじさん」と返答した。

 明大を卒業してから10年目。再び古巣のマンドリン倶楽部に舞い戻ることになったのだ。私は大分県別府市で生まれた。高校までは白球を追う野球少年。でも、歌うことも大好き。NHKの歌番組「ラジオ歌謡」から流れる「白い花の咲く頃」「あざみの歌」といった曲を口ずさんでいた。ある日、5歳上の兄に誘われ、大分市で開かれた明大マンドリン倶楽部の公演に出掛けた。洗練されたアンサンブルを目の当たりにして、驚いた。「学生服を着ているが、彼らはプロに違いない」と思ったほど。自分も入ろう。そう決意した。

 58年(昭和33年)、明大法学部に入学し、あこがれのマンドリン倶楽部の部室を訪ねると、周囲は剣道部や空手部といった運動部ばかり。汗臭いにおいが漂っていた。その年の入部者は百数十人もいた。まだまだ娯楽の少ない時代。私と同じように音楽に飢えている若者が多かったのだ。1年生はまず教則本を入手して、課題曲を弾けるようになるのが目標。放課後、部室で上級生の指導を仰ぎ、午後7~8時まで練習を続ける。弾けるようになると、上級生と合奏する資格を得るための試験を受ける。上級生の前で緊張しているからなかなかうまく弾けない。私も2度目で何とか合格した。

<夏合宿で地獄の猛特訓>夏休みに入ると、古賀先生も参加する夏合宿が待っていた。場所は佐渡島のホテル。練習は午前9時に始まり、午後10時までが合奏。それから12時までがパート練習で、深夜3時、4時まで個人練習が続く。厳しさに音を上げる新入生が多く、例年9月になると部員はごっそり抜けている。秋になると、1年生の中から、東京近郊の演奏会に同行し、ステージに立つ者も出てくる。私が現役のころは公演数が多く、年間120~130公演をこなしていた。今はそれほど多くないが、週末や休日には各地の明大校友会や地方自治体の招きに応じて、公演を開いている。

 現在、私は年2回ある1週間の合宿、春と秋の定期演奏会には必ず参加し、学生たちと汗を流す。思い出は尽きないが、78年の古賀先生の音楽葬や三木武夫元首相の衆院・内閣合同葬で演奏したことは印象深い。三木さんは明大OBで、母校の徳島県土成中学校の校歌を古賀先生と一緒に作っている。そんな縁で、奥様の睦子さんから、「マンドリン倶楽部に校歌を演奏してほしい」と依頼があったのだ。

 

 伝統のマンクラも時代に応じて変わってきた。一番の変化は、創立以来男子部員だけだったのを、入部希望者が減ってきたため、97年から女子部員も受け入れるようにしたことだ。一時は部員の半分近くを女子が占めた。現在は3分の1ほどだが、今年は初の女子学生指揮者が誕生した。一方、変わらないのはクラシックを演奏するとき、男子は全員学生服でステージに上がること。実は古賀先生が存命のとき、「学ランは古くさいからブレザーに変えよう」とおっしゃったのだが、学生側が拒んだ。折り目正しい制服姿はOBや観客からも好評だ。

<古賀イズムの担い手>ジャンルにとらわれず偉大な楽曲を生み出した古賀先生。クラシック、歌謡曲からポップスまで多彩なジャンルをこなすマンドリン倶楽部は古賀イズムの担い手でもある。このほど2枚組のCD「古賀政男とその時代 明治大学マンドリン倶楽部 昭和歌謡曲を奏でる」(コロンビア)が発売されたので、耳を傾けていただければ幸いだ。私は来年73歳になる。古賀先生が亡くなった年に並ぶが、もう少しは続けられるだろう。合宿で学生たちと酒を酌み交わしながら、古賀先生が育ててきた音楽を一緒に作り上げていく。こんな喜びはほかにはない。

 (注記:甲斐靖文氏は今年84歳で常任指揮者を務めて52年になられます)

 

9.明治大学マンドリン倶楽部を逗子に呼んだ最大の功労者 五味敬明氏

 平成7年6月会員の高橋弘さんが責任者を務める佐島マリーナでモーターボートに乗りマリーンリゾート懇親会を開催した折に五味敬明氏に謝辞と記念品を贈呈しました。

 

謝辞 〈第1回明治大学マンドリン倶楽部演奏会実現に労の有った五味氏へ)

 紫紺のあじさいの花が色づく中、我々は今、都会とは違う時間(とき)が流れている佐島マリーナのマリーンリゾートに参集しています。思い起こせば横浜銀行シーサイド倶楽部に校友会逗葉支部の創立を願って11名のOBが参集したのは丁度3年前の6月11日のことでした。逗葉地区で初めて明治大学マンドリン倶楽部演奏会を開催することが、支部創立の出発点であったことを思えば、貴方のご尽力は多大のものでありました。つい1週間前の6月17日に隣の鎌倉支部が長い歴史の中で初めてマンドリン倶楽部コンサートを開催し1500余名を鎌倉芸術館の大ホールに集めました。やっと念願が叶い支部活動が一歩前進できると役員の方がもらしていたとのことを聞くにつけ逗葉支部のこの3年間の力を改めて驚きを持って感じるばかりです。昨年11月には開村したばかりの緑豊かな丘陵の地・湘南国際村の国際会議場で支部総会を行いましたが、これも又近隣支部を驚かせるものでした。懇親会で開催したオークションは貴方の持論である高額のもの、300点以上のものを集めるところまでいきませんでしたが、値決め・順番・演出はまさにオークションそのもので、逗葉支部の過去の債務をすべて精算する結果となりました。現在新しい人との新たな出会いを求めて150名の会員の方から年会費の入金をいただき、一方100名以上の方々から同好会への参加を願って趣味の返事が寄せられています。

 貴方のこれまでの一直線で爆発的なセンスに深く敬意をはらうと共に、明日への逗葉支部の活動の指針としたいと願っております。ここにこの3年間の経過の節目として貴方のこれまでの労に深く感謝しその活動の証として記念写真を贈呈するものです。

   平成7年6月24日     明治大学校友会逗葉支部 支部長 大貫 宏

  五味敬明殿                      (代読 石渡璋典)

 

 

10.逗子での明大マンクラ公演での珍事について 雑記  昭和42年卒 足立泰秀

 

 逗子葉山地域での明大マンクラ公演は、大きな会場が無いため入場券収入だけでは目的とするチャリティーコンサートができない。地元企業の皆様方にプログラムへの広告協賛をお願いし、葉山に於ては森英二さん他に発起人会の一人広瀬敏夫さんや宮澤恒夫さんの精力的な尽力がありました。

 昭和42年政経卒の広瀬敏夫さんは明大ハーモニカソサエティー部員だった経歴から音楽には造形深くギターで作曲もされていました。共にカラオケクラブ幹事でもあったのである時作曲した曲に作詞を私が頼まれて出来上がったのが「KAZEに吹かれて 」という曲です。埼玉県にある(有)ASORA音楽制作でCDにしてもらい、又後日ボーカル“河瀬あい”さんの歌声を入れてCDを66枚プレスして北は北海道、南は沖縄まで広瀬、足立の友知人に1枚1,500円で販売もしました。

 先輩の桐島元樹さんが写真を、またカラオケクラブ会場のママ馬場恵美子さんが絵で協力してくれました。ここまでは両者の自己満足の範囲だったのですが、そのあと平成17年10月15日(土)逗子文化プラザで開催した第9回明治大学マンドリン倶楽部チャリティーコンサートの際にマンクラに譜面を渡してダメモトで演奏をお願いしたところなんと練習して演奏してくれました。各楽器ごとの譜面作りもあったと思いますが支部役員が作詞作曲した曲をマンクラが演奏したのは珍事だったのではと思います。

 コンサートの前に広瀬さんは湘南ビーチFMに出演してマンドリンコンサートのPRの際にこのCDを流してもらっていました。会報駿台逗子・葉山第10号の1頁に歌詞を添えてご当地ソングとして「KAZEに吹かれて」が演奏され大変好評でしたと記載されています。当時の部員はプログラムによると主将山崎裕介(県立熊谷高・ギター)、指揮者三谷和也(神奈川大学付属高)、コンサートマスター杉浦皓介(明治大学付属中野高・第1マンドリン)でした。3人共まだ40歳程と思いますので当時の「KAZEに吹かれて 」演奏の逸話が有れば聞いてみたいと今になって思います。

 

 

マンドリンコンサートはチャリティーの位置づけから地元他の多くの方々とのご支援を頂き、これまで13回開催を続けるなかに親交を深めさせていただいた方も多い。また経費節約で1度だけプログラムを自前で(A3プリンター印刷、製本)作成したこともあった。写真を添えて感謝に変えさせて頂きます。

 

   根田哲雄氏(当時:東神興業㈱社長・明治大学マンドリン倶楽部OB会理事長)

 

 

 キングストア臼井滋夫妻とペギーさん(若い時の写真・コンサートプログラム掲載)

 

 ペギー葉山さん(逗子公演)

 沢いづみさん(葉山公演)

 絵画のオークション

 絵画寄贈の鈴木英人さん

 プログラムを印刷から自前製本)

 

        花束贈呈のコスモス・インターナショナル・スクールの生徒さん


マンドリンはイタリア生まれでイタリアで育った楽器です。逗葉地区の第1回公演から

演奏曲は第3部がALL  OVER  THE  WORLDでした。日本のここの歌の演奏

は当然ありますが、常に東亜の一角から世界に目を向けているのは明治大学の精神で

す。海外勤務が多かった小川幹雄新支部長の今後の支部運営に大いに期待しています。

 

         支部創立30周年記念ブログ(2)終了