令和元年度定時総会を開催しました
6月15日(土)にシーサイド「カンティーナ逗子店」で、第27回明治大学校友会逗子葉山地域支部の定時総会を開催しました。
会員37名、他支部から神奈川県東部支部、横浜・川崎 ・鎌倉・横須賀・藤沢の各地域支部と逗葉地区3大学(慶応、立教、早稲田)のご来賓の方々に講演講師を含めて15名をお迎えしました。総勢52名は近年で一番少ない中にも懇親を深めています。
総会は川﨑副支部長の司会で始まり、まず物故会員へ黙祷を捧げた後、他支部のご来賓紹介、山村支部長の挨拶があり、今年の11月17日(日)に前回葉山開催より5年振りに明大マンドリン倶楽部コンサートの逗子での開催にこぎ着けた旨の案内がありました。逗子文化プラザなぎさホール開催ですが、前回逗子開催からはなんと12年振りです。是非チケットを買ってご来場を下さるようお願いもありました。次いで会則により、支部長が議長になり、総会が始まりました。
平成30年度活動報告、会計報告、役員選任、令和元年度活動計画、令和元年度予算などすべての議案が満場一致で可決承認されました。
今総会の第3号議案で辞任することになった山村博輝支部長から足立泰秀新支部長に任期途中で体調不良によりバトンタッチすることになった経緯説明をしていただきました。
その後、神奈川県東部支部の淺原友則副幹事長から、今年から東部支部は全国の支部に先駆けて、代議員制を採用するなどの紹介も含めご来賓の挨拶を頂き総会を終了いたしました。
引き続き講演会となり「父別府隆彦と明治大学野球部の話」の演題で講演して頂く別府隆彦氏の御子息・別府寛隆氏を小川幹事長が紹介し講演(後述)がありました。
講演会を終え懇親会となりましたが、司会の綾部副支部長からまず地元他大学のご来賓の紹介と新旧両支部長の挨拶があり、砂山相談役乾杯の発声で和やかに飲食歓談が始まり、最後に菅野副幹事長の発声で校歌斉唱とエールをおくり、仲内支部長代行の閉会の挨拶があって散会となりました。
当日は大荒れの雨予想で逗子駅方面から歩いて来られる方を考え心配しましたが雨
も小降りでほっとしました。
ー ー - 当日の講演内容付記しておきますー ー ー
(講演は下記数多くのエピソードが含まれていて映像を見ながら楽しく拝聴しました)
明治大学野球部と言えば島岡名物監督を忘れることができず、寛隆氏も多くの時間を費やしました。
島岡さんは明大予科を卒業後野球に門外漢の明治中学の野球部の監督に就任しました。明治中学の監督の時3度甲子園に行っています。昭和27年に低迷していた明治大学野球部の再建を目指し、島岡さんが明治大学の野球部監督に就任しました。28年秋のシーズンで11年ぶり島岡監督初優勝となり、その後優勝15回を数えました。島岡監督が初優勝を遂げた時「総理大臣になったより嬉しい」と喜んでいたようです。島岡野球のメンバーの編成は守備が堅実で肩が強く足が速い、少々バッテイングが劣っていても渋くて確実な選手が起用されました。したがってランナーが出るとバンド、三塁ではスクイズ、1点でもリードすれば五番打者でもベンチに下げて守備固め。当時攻撃が最大の防御が幅をきかせた時代に現代のプロ野球の守りの野球を先取りしたものでした。
父は旭川時代にスタルヒンに出会いその後野球にのめり込み、生涯野球と共に歩んできました。明治中学で野球部、大戦終戦後明治大学に復学して野球部の主将と明治中学の監督を兼務していました。そのころ父は早朝大学野球部の練習、午後からは明治中学での監督、夕方からは大学野球部の主将として一日中野球をやっていました。こんなに頑張っても誰も認めてくれないと荒んでいた時、グランドキーパーの白石さんが昼休みに鰻を差し入れてくれて、この件から別に皆に認めてもらわなくともグランドキーパー1人でも誰か1人でも認めてくれたらそれで良いんじゃないか、この教訓が後の諸問題に対して頑張られたと思うとのことでした。父は私に説教はあまりしなかったが、人は地位や年齢などで差別してはいけない、見下すと烈火のごとく怒られたそうです。私は父の教えだけは守っています。父と島岡監督の関係ですが、父も祖父を早く亡くし、島岡さんを親父さんのように慕っており、島岡さんの最初の仲人は父と母親の結婚式でした。昭和25年に私が生まれ、寛隆という名前は島岡さんが名づけてくれました。そして島岡さんの最後の仲人は私の結婚式でした。私は結婚して7年で離婚しましたが、父はそのことを御大に言わず、御大が亡くなるまで私が離婚したこと知らずに亡くなりました。私は心に痛みを感じています。昭和27年に島岡さんが明治大学の野球部監督になってから父は島岡監督を支え、平成元年島岡監督の死去に伴い、父が後任として監督に就任。平成7年退任するまで四度優勝しています。
ジョディーハーラー投手
小林千紘投手
( 明治大学野球部100周年に出席 )
父は類まれなる女好きでした。明治も女性に人気がある大学にしなければとリバティータワー建設に際し、トイレにパウダールームを設置したり、生協には女性に人気のあるコンビニを入れろとか提言していました。しかも女性にもてて傍に美人が多くいたそうです。
平成22年10月、父の最後を看取ったのは私と弟と前述の美人でした。
*支部長が所有する資料を当日別府寛隆さんや元野球部の狩野昭夫さん(横須賀地域支部幹事長他の方にお見せしていましたので添付しておきます。 平成7年11月記念館さよならパーティ―で入手されたそうです。別府監督の左に写っているのは岡野加穂留学長で翌年退任後に当支部顧問になっていただきました。
(根岸 記)