2020/01/10背景変更 裕次郎灯台

旧陸軍登戸研究所を思う明大生田キャンパス訪問

 12月11日(日)校友会神奈川県東部支部役員会が明大生田キャンパスで開催され13年振りに訪問しました。私は商学部に入学したため1~2年時は和泉校舎で、3~4年時で駿河台校舎で学びまだキャンパスという呼び名は使われていませんでした。したがって生田校舎に行く機会もなく卒業後も八重桜で有名な生田校舎を訪ねたいと思いつつそのままになっていました。

 しかし逗子葉山の地に校友会支部が出来て9年目の平成13年(2001年)12月2日(日)24名参加したサロンバスでの明早ラグビー観戦会の際に国立競技場に行く前に生田校舎に立ち寄りました。支部会員の農学部出身の石渡俊雄さん(S33年卒)の案内で実験用に使った動物の慰霊碑、植村直己の記念碑や旧陸軍登戸研究所跡地に残る古い木造建物を見たことが印象に残っていました。

                               26号棟〈第3科倉庫)前

              5号棟(偽札印刷工場)前

 

 実はこの旧陸軍登戸研究所を戦争遺跡として保存しようとする活動がその後始まり、平成21年(2009年)7月2日に稲田郷土史研究会会員で「旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会」の森田忠正さんと今野淳子さんが逗子市池子に住む高木さと子さんを訪問されました。高木さんとは祖父の岡田朝太郎(東京帝国大学法科教授で広田弘毅吉田茂両元総理の恩師で明大専任教員も務めた)の顕彰碑建立の際に知り合った縁で、訪問前に連絡があり立ち会っていました。

 森田さんが事務局を務めるこの会は、大図建吾(県立高校の先生)、姫田光義中央大学名誉教授)、矢澤康祐(専修大学教授)、渡辺賢二(明治大学教授)の4人を代表世話人とする会とのことで保存の動きが川崎市民から起こったことを感じました。この会の会報創刊号を見ると2006年10月結成となっていますので3年後に訪問となったわけです。創刊号は2012年3月発行で会の名前も「登戸研究所保存の会」に改称されていました。 旧日本陸軍が秘密戦のために研究していたため防諜(スパイ活動防止)、諜報(スパイ活動)、謀略(破壊・撹乱活動・暗殺)、宣伝(人心の誘導)のための多くの研究内容・開発された兵器資材など国際法規上大きな問題になるものがあり終戦宣言の翌日に陸軍省軍事課からの秘密通達ですべて残らず処分がすることになり、多くのこの事業に携わった人たちも戦後口を閉ざしていました。時代は移り戦後60年を経過し昔を知る人が少なくなった今、保存活動をしなければ永遠に闇に葬られてしまうとの危機感から郷土史家を中心として川崎市民が立ち上がり関係者の口から話が出てくるようになったようでした。

 人は伝手でたどり寄せるの言葉通り高木さんと一緒に登戸で働いていた方からの情報で訪問されたとのことでした。森田さんは父親が校舎内で働いていてここで生まれ育ったとのことで高木さんへの聞き取りにも熱が入っていました。

 私も初めて高木さんから話を聞きました。

 高木さと子(旧姓岡田)さんは新宿にあった元府立第5高等学院(現在中野にある富士高等学校)の女学生の身分で登戸研究所の第1科草場少将の配下で秘書兼技術者として昭和20年2月中旬から昭和20年5月に研究所所属部署の長野県疎開まで働いていたそうです。同年3月高校卒業も卒業式には出られなかったと言っていました。直接は殺人光線を研究する笹田技師配下で私服で勤務、驚いたことに他の科も出入り自由で写真も撮っていたと証言されました。前年昭和19年秋に海軍技術研究所(国分寺)で東京物理学校電波講習生(見習士官)と共に3か月程受講し卒業。陸軍登戸研究所へ派遣命令があったとのことで、これはどうも祖父岡田朝太郎の声掛けがあったのではとも話されていました。長野県北安曇郡会染村(現在松川村)に疎開した際は農家に寄宿、終戦後は草場少将の計らいで当時長野県池田町に疎開していた東京工業大学森田研究所の事務員に転籍されたとの話も出ていました。同年12月には実家に戻り翌年恵泉女学園大学へ入学卒業されたそうです。

 森田さんが訪問した後、資料が高木さんに送られてきて私にコピーもいただき、平成22年(2010年)3月29日に明治大学平和教育登戸研究所資料館が開館して以降も資料館からの問い合わせ窓口が昭和3年生まれで高齢の高木さんの代りに私になっていましたので、その縁で直接資料館から各種案内や資料が送られてくるようになり現在も続いています。2022年3月には資料館の開館10周年記念誌「10年のあゆみ」も送っていただきました。

 この中に開催した企画展がまとめて掲載されていて、すべてご案内をいただいた記憶にあるものでした。

第1回 戦争遺跡写真展 登戸研究所から戦争遺跡を見るー川崎を中心にー

第2回 風船爆弾の風景2011 ―風船爆弾の「現場」から今をみつめるー

第3回 キャンパスにあった偽札印刷工場―5号棟調査報告―

第4回 本土決戦と秘密戦―その時登戸研究所は何をしていたかー

第5回 紙と戦争―登戸研究所風船爆弾・偽札―

第6回 NOBORITO 1945―登戸研究所70年前の真実

第7回 「登戸」再発見―建物と地域から追う研究所の姿―

第8回 科学技術と民間人の戦争動員―陸軍登戸実験場開設80年―

第9回 帝銀事件登戸研究所―捜査手記から明らかになる旧日本陸軍の毒物研究―

第⒑回 少女が残した登戸研究所の記録―陸軍登戸出張所開設80年―

 

 資料館 から問い合わせに下記のものがありました。2015年2月のことですが旧登戸研究所本館に残されている絵画について調査を続けていますが戦時中より本館(将校クラブ)に飾られていたとも言われていますが、当時所内で見たことがあると証言された方がおられないため、高木さんがご存知の可能性がある情報を得ましたので高木さんにお尋ねいただくことはできませんでしょうかとの内容でした。発信は資料館の椎名真帆さんで、あとで判ったことですが椎名さんはなんと都立富士高校卒で高木さんの学校の後輩で、明大1993年卒で私の後輩でもありました。

 高木さんは体調を崩されていましたが、送られてきた絵画(佐藤耕寛画・漁待つ人々・173㎝×227㎝)と用件をお知らせしたところ、下記返事がありました。

 絵画は将校食堂に飾られていました。将校食堂は自分がいた第4科の建物の通りを挟んだ正面にあった本館にありました。配属が第1科第2班別班(班長岡本正彦少佐)だったため岡田班長に誘われて幾度か食堂で食事をして、大きな漁師の奥さん達の絵が陸軍の科学研究所に相応しくないと思って絵画について聞いたけれども誰もいわれを知っていませんでした。本館の玄関前にも30㎝程の絵画もありました。この返事を椎名真帆さんにする際に高木さと子さんが会員だった「葉山近現代史を語る会」の田嶋修三さんと野中康司さんが高木さと子さんより聞取りされた資料もお送りしました。なお岡本正彦少佐は長野の疎開先から横浜に出て横浜市医専〈現在の横浜市立大学医学部〉を卒業し医者となった後に某電機メーカーに入社し電波技術専門家として研究勤務も71歳の若さで亡くなったとのことです。登戸での研究者は戦後専門技術者として企業に入社し後輩の指導にあたったようですが過去の思いも有って短命で没した人もおられたように思います。

 2015年の第6回企画展の案内チラシに「漁を待つ人々」の写真が載っていて将校食堂に飾られていたと記されてありました。

 

 今年見た生田キャンパス内の旧登戸研究所跡地には木造建物はなく、わずかに13年前に見たコンクリート造りの弾薬庫がそのままありました。

 追記:

 高木さと子さんの祖父岡田朝太郎氏は西洋の偽札の収集家だったとも高木さんから聞いています。「陸軍登戸研究所」―隠蔽謀略秘密兵器開発―『第3節 贋幣作戦の展開』 青木書店 海野福寿・山田朗・渡辺賢二共著、や「陸軍登戸研究所の真実」『第七章 対支経済謀略としての偽札工作』芙蓉書房出版 伴茂雄著、「消された秘密戦研究所」『第一節日中全面戦争と通貨戦争』信濃毎日新聞社 木下健蔵著、等の部分コピーを高木さんからいただいていました。また新聞記事等も私なりに切り取ってあったり、文学部海野福寿教授の「陸軍登戸研究所跡地(生田キャンパス)を戦争遺跡として保存しよう」や理工学部浜口稔教授の「生田キャンパス風物詩」、などもコピーで残されています。

 

 今回のブログ投稿は、高齢となり手元資料が処分される運命にあるため、やはり何か残しておいた方が良いのではと思って投稿しました。今年の漢字一文字投票の一番が「戦」であったので投稿したわけではありませんが、東部支部役員会の場を生田キャンパスに選んだ理由は確認していません。

 興味ある方は申出下さい。資料をお貸し致します。  (足立)