2020/01/10背景変更 裕次郎灯台

旧陸軍登戸研究所を思う明大生田キャンパス訪問

 12月11日(日)校友会神奈川県東部支部役員会が明大生田キャンパスで開催され13年振りに訪問しました。私は商学部に入学したため1~2年時は和泉校舎で、3~4年時で駿河台校舎で学びまだキャンパスという呼び名は使われていませんでした。したがって生田校舎に行く機会もなく卒業後も八重桜で有名な生田校舎を訪ねたいと思いつつそのままになっていました。

 しかし逗子葉山の地に校友会支部が出来て9年目の平成13年(2001年)12月2日(日)24名参加したサロンバスでの明早ラグビー観戦会の際に国立競技場に行く前に生田校舎に立ち寄りました。支部会員の農学部出身の石渡俊雄さん(S33年卒)の案内で実験用に使った動物の慰霊碑、植村直己の記念碑や旧陸軍登戸研究所跡地に残る古い木造建物を見たことが印象に残っていました。

                               26号棟〈第3科倉庫)前

              5号棟(偽札印刷工場)前

 

 実はこの旧陸軍登戸研究所を戦争遺跡として保存しようとする活動がその後始まり、平成21年(2009年)7月2日に稲田郷土史研究会会員で「旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会」の森田忠正さんと今野淳子さんが逗子市池子に住む高木さと子さんを訪問されました。高木さんとは祖父の岡田朝太郎(東京帝国大学法科教授で広田弘毅吉田茂両元総理の恩師で明大専任教員も務めた)の顕彰碑建立の際に知り合った縁で、訪問前に連絡があり立ち会っていました。

 森田さんが事務局を務めるこの会は、大図建吾(県立高校の先生)、姫田光義中央大学名誉教授)、矢澤康祐(専修大学教授)、渡辺賢二(明治大学教授)の4人を代表世話人とする会とのことで保存の動きが川崎市民から起こったことを感じました。この会の会報創刊号を見ると2006年10月結成となっていますので3年後に訪問となったわけです。創刊号は2012年3月発行で会の名前も「登戸研究所保存の会」に改称されていました。 旧日本陸軍が秘密戦のために研究していたため防諜(スパイ活動防止)、諜報(スパイ活動)、謀略(破壊・撹乱活動・暗殺)、宣伝(人心の誘導)のための多くの研究内容・開発された兵器資材など国際法規上大きな問題になるものがあり終戦宣言の翌日に陸軍省軍事課からの秘密通達ですべて残らず処分がすることになり、多くのこの事業に携わった人たちも戦後口を閉ざしていました。時代は移り戦後60年を経過し昔を知る人が少なくなった今、保存活動をしなければ永遠に闇に葬られてしまうとの危機感から郷土史家を中心として川崎市民が立ち上がり関係者の口から話が出てくるようになったようでした。

 人は伝手でたどり寄せるの言葉通り高木さんと一緒に登戸で働いていた方からの情報で訪問されたとのことでした。森田さんは父親が校舎内で働いていてここで生まれ育ったとのことで高木さんへの聞き取りにも熱が入っていました。

 私も初めて高木さんから話を聞きました。

 高木さと子(旧姓岡田)さんは新宿にあった元府立第5高等学院(現在中野にある富士高等学校)の女学生の身分で登戸研究所の第1科草場少将の配下で秘書兼技術者として昭和20年2月中旬から昭和20年5月に研究所所属部署の長野県疎開まで働いていたそうです。同年3月高校卒業も卒業式には出られなかったと言っていました。直接は殺人光線を研究する笹田技師配下で私服で勤務、驚いたことに他の科も出入り自由で写真も撮っていたと証言されました。前年昭和19年秋に海軍技術研究所(国分寺)で東京物理学校電波講習生(見習士官)と共に3か月程受講し卒業。陸軍登戸研究所へ派遣命令があったとのことで、これはどうも祖父岡田朝太郎の声掛けがあったのではとも話されていました。長野県北安曇郡会染村(現在松川村)に疎開した際は農家に寄宿、終戦後は草場少将の計らいで当時長野県池田町に疎開していた東京工業大学森田研究所の事務員に転籍されたとの話も出ていました。同年12月には実家に戻り翌年恵泉女学園大学へ入学卒業されたそうです。

 森田さんが訪問した後、資料が高木さんに送られてきて私にコピーもいただき、平成22年(2010年)3月29日に明治大学平和教育登戸研究所資料館が開館して以降も資料館からの問い合わせ窓口が昭和3年生まれで高齢の高木さんの代りに私になっていましたので、その縁で直接資料館から各種案内や資料が送られてくるようになり現在も続いています。2022年3月には資料館の開館10周年記念誌「10年のあゆみ」も送っていただきました。

 この中に開催した企画展がまとめて掲載されていて、すべてご案内をいただいた記憶にあるものでした。

第1回 戦争遺跡写真展 登戸研究所から戦争遺跡を見るー川崎を中心にー

第2回 風船爆弾の風景2011 ―風船爆弾の「現場」から今をみつめるー

第3回 キャンパスにあった偽札印刷工場―5号棟調査報告―

第4回 本土決戦と秘密戦―その時登戸研究所は何をしていたかー

第5回 紙と戦争―登戸研究所風船爆弾・偽札―

第6回 NOBORITO 1945―登戸研究所70年前の真実

第7回 「登戸」再発見―建物と地域から追う研究所の姿―

第8回 科学技術と民間人の戦争動員―陸軍登戸実験場開設80年―

第9回 帝銀事件登戸研究所―捜査手記から明らかになる旧日本陸軍の毒物研究―

第⒑回 少女が残した登戸研究所の記録―陸軍登戸出張所開設80年―

 

 資料館 から問い合わせに下記のものがありました。2015年2月のことですが旧登戸研究所本館に残されている絵画について調査を続けていますが戦時中より本館(将校クラブ)に飾られていたとも言われていますが、当時所内で見たことがあると証言された方がおられないため、高木さんがご存知の可能性がある情報を得ましたので高木さんにお尋ねいただくことはできませんでしょうかとの内容でした。発信は資料館の椎名真帆さんで、あとで判ったことですが椎名さんはなんと都立富士高校卒で高木さんの学校の後輩で、明大1993年卒で私の後輩でもありました。

 高木さんは体調を崩されていましたが、送られてきた絵画(佐藤耕寛画・漁待つ人々・173㎝×227㎝)と用件をお知らせしたところ、下記返事がありました。

 絵画は将校食堂に飾られていました。将校食堂は自分がいた第4科の建物の通りを挟んだ正面にあった本館にありました。配属が第1科第2班別班(班長岡本正彦少佐)だったため岡田班長に誘われて幾度か食堂で食事をして、大きな漁師の奥さん達の絵が陸軍の科学研究所に相応しくないと思って絵画について聞いたけれども誰もいわれを知っていませんでした。本館の玄関前にも30㎝程の絵画もありました。この返事を椎名真帆さんにする際に高木さと子さんが会員だった「葉山近現代史を語る会」の田嶋修三さんと野中康司さんが高木さと子さんより聞取りされた資料もお送りしました。なお岡本正彦少佐は長野の疎開先から横浜に出て横浜市医専〈現在の横浜市立大学医学部〉を卒業し医者となった後に某電機メーカーに入社し電波技術専門家として研究勤務も71歳の若さで亡くなったとのことです。登戸での研究者は戦後専門技術者として企業に入社し後輩の指導にあたったようですが過去の思いも有って短命で没した人もおられたように思います。

 2015年の第6回企画展の案内チラシに「漁を待つ人々」の写真が載っていて将校食堂に飾られていたと記されてありました。

 

 今年見た生田キャンパス内の旧登戸研究所跡地には木造建物はなく、わずかに13年前に見たコンクリート造りの弾薬庫がそのままありました。

 追記:

 高木さと子さんの祖父岡田朝太郎氏は西洋の偽札の収集家だったとも高木さんから聞いています。「陸軍登戸研究所」―隠蔽謀略秘密兵器開発―『第3節 贋幣作戦の展開』 青木書店 海野福寿・山田朗・渡辺賢二共著、や「陸軍登戸研究所の真実」『第七章 対支経済謀略としての偽札工作』芙蓉書房出版 伴茂雄著、「消された秘密戦研究所」『第一節日中全面戦争と通貨戦争』信濃毎日新聞社 木下健蔵著、等の部分コピーを高木さんからいただいていました。また新聞記事等も私なりに切り取ってあったり、文学部海野福寿教授の「陸軍登戸研究所跡地(生田キャンパス)を戦争遺跡として保存しよう」や理工学部浜口稔教授の「生田キャンパス風物詩」、などもコピーで残されています。

 

 今回のブログ投稿は、高齢となり手元資料が処分される運命にあるため、やはり何か残しておいた方が良いのではと思って投稿しました。今年の漢字一文字投票の一番が「戦」であったので投稿したわけではありませんが、東部支部役員会の場を生田キャンパスに選んだ理由は確認していません。

 興味ある方は申出下さい。資料をお貸し致します。  (足立)                           

 

明治大学マンドリン倶楽部創部100周年記念祝賀会で共に祝う

 今年9月に明治大学マンドリン倶楽部より当支部長宛で創部100周年記念第191回定期演奏会日本青年館ホール)と11月6日の祝賀会(幕張)のご案内をいただきました。当支部は今年創部30周年を迎え、この30年間で13回マンドリン倶楽部のチャリティーコンサートを開催してきました。今日支部が存続しているのは卒業生の親睦目的だけでなくコンサートを通じ地元への奉仕の目的も持つと共に、寄付の一方、収益から後日の活動資金を残してきたからに他ならないと思います。毎回コンサートの終わったあとに次は何時かと問われることが多く、地元の文化事業としても貢献してきていると思っています。開催にあたっては多くの会員の協力は元よりですが、マンドリン倶楽部あってのため創部100周年は「おめでとうございます」と伝えて共に祝いたいと思います。9月役員会及び10月役員会でも話に出し、支部長の私が代表して祝賀会に参加することにしました。

    
 

 

 

 以降は「祝賀会の報告」と「祝賀会で地元とマンクラの縁で思い出したこと」です。

 会場内の写真がありませんので提供いただけたら提供者名も添え掲載いたします。

       *写真添付メール先   yasuhide-adachi-tkb@nifty.com

 

 会場の幕張新都心ホテルグリーンタワー幕張」は3年前に全国校友千葉大会で訪れた幕張メッセ国際会議場の手前にありました。やはり参加するにあたり、OBで当支部役員だったS48年商卒の稲村茂さんや逗子葉山地区のコンサートに出演した逗子開成高校出身のH3年政経卒の位田岳彦君に会えればとOB受付の参加者リストで確認してもらいましたがリストになく残念な思いをしました。

 位田君は支部が出来て以降地元高校から明大に入りマンクラ部員として2年の時に母校逗子開成学園での第5回コンサートで第1マンドリンを担当、4年の時は葉山町福祉文化会館での第6回コンサートで指揮者を務めていました。会えれば持参した2000年記念と銘打ったこの第6回のプログラムを見ながら歓談しようと思っていました。

     

   

              葉山森戸神社先の海にある裕次郎灯台(傍に小さい三枝灯台もある)

 

 またこのプログラムに「マンドリンの調べと百里香(バイリシャン)」の記事があり、この中に平成4年マンクラの第一回中国演奏旅行に同行した常任指揮者の甲斐靖文さんが作曲した「百里香」という曲について触れていて、またこの曲を二期会歌手萩原加緒里さんが前年の全国校友東京大会で歌っていたことも記していました。萩原加緒里さんの1999年サイン入りCDも手元に残っていて懐かしく思い出し、100周年記念祝賀会で甲斐さんに会って話す機会が取れればこの話をしようと思っていました。

  

 平成4年は当支部創立の年でもあり、支部創立30周年に相応しいブログ投稿になるかなと勝手に思ったりしました。なんと当日受付で受け取った当日の式次第にアトラクションで4組(3人と1組)の歌手の1人に萩原かおりさんが載っていて驚きました。この件の結果はアトラクションの前に甲斐さんに会い該当ページにサインをもらい、その後別のテーブルだった萩原かおりさんにも会って話をしてサインをもらっています。萩原さんは昭和音楽大学の教授になられて今年7年目たそうです。23年前の萩原加緒里さんは名前を平仮名に変えられていました。

 順不同になりますが、式の始まる前に映像でマンクラ100年の歩みの紹介がありました。昭和18年5月戦争でマンクラが解散していたことを知りました。

 

 会場では壁際の椅子の左一つ置いて横須賀地域支部の小池克彦支部長がおられ最初マスク着用で判らなかったのですが乾杯の際に気付いて話をしました。横須賀地域支部は毎年のように横須賀芸術劇場でマンクラコンサートを開催しゲストも早々に決めています。この11月に横浜地域支部の後にコンサートを予定していて招待券をいただいていました。100周年記念祝賀会は当然の参加だったと思います。   

 

 当支部草創期の頃、逗子葉山での開催にとって、横須賀や厚木や茅ケ崎での開催はともに良いお手本でしたが如何せん大きな会場の無い逗子葉山では独自の開催(昼夜2回公演、費用捻出のためチャリティーとしてプログラムに広告掲載)をしてきました。学生さんたちのバス代と楽器運送代は負担ですが、地方と違って宿泊費負担がないので小規模の支部のわりに多く開催できてきたと思っています。今は大学の方針で学生に配慮して無くなりましたが昼夜2回公演(逗子開成を除き平成22年開催まで)の際は学生さんたちに本当に感謝の言葉しかありません。

 壁際の椅子の右隣にさいたま市から来られた平谷 一(たいらはじめ)さんがおられ、明治大学グリークラブOB会の方でマンクラ連携担当でもあり甲斐さんとは比較的良く会うと話されていましたが、私が逗子葉山地域支部と伝えると白石四郎ゼミだったという話になりました。八戸生れの幸子奥様は今も葉山に住み元気と伝えましたが、平谷さんからゼミで渡邊竹夫会員の1年後輩で娘で二期会の渡邊仁美さんのオペラ公演の案内ももらっていると言っていました。逗子に明大グリークラブを呼んだこともあると話しています。これは立大、早大、明大の東京3大学グリークラブによる東日本大震災義援チャリティーコンサートでした。コロナ禍で対面での会話がなくなると、こういう出合いも失われていることを痛感しました。

     上の3枚の写真は平谷一さんより提供です。有難うございました。お仲間にも
  このブログを紹介していただければ幸いです。   明治はひとつ!! 

 

 祝賀式の挨拶等は映像化した式次第に譲りますが、アトラクションでは甲斐さんの指揮・20名程のマンクラ演奏で最初に萩原かおりさんが「百里香」を二期会歌手らしく伸びや透明感のある高い声で歌いました。私には今年が日中国交正常化50周年であることがを思い浮かびました。周恩来が学んだ明治大学は他大学より中国との友好を強く訴えている大学と思っています。校友会名誉会長でもある村山富市元総理が日中友好のため今なお機会あるごとに関係正常化を訴えている報道にも接します。

 二番目は芹洋子さんが「四季の歌」で友達、父親、恋人、母親を力強く歌っていました。三番目がトアエ・モアさんのお二人で50年程前の札幌オリンピックの際の「虹と雪のバラード」を歌い、締めでアントニオ古賀さんが歌いました。題名は判りませんので後日判明したらこのブログに掲載したいと思いますがアントニオ古賀さんの歌と甲斐さんとの茶目っ気たっぷりのやり取りが印象的でした。

 なおマンクラと縁の深い故人となられたペギー葉山さんのことも思い出しました。

創部80周年記念祝賀会の際に当支部現相談役の日向 強さんが参加して一緒に撮った写真が残されていて、翌年2003年と2007年に逗子のコンサートにゲストで出演いただきました。

      (  逗子開成学園でのマンドリンコンサートにゲストで歌っていただきました)
    コンサートのゲスト折衝係りの砂山 昇さんと・2003年9月28日

 

  (ぺ―ギ―葉山さんは既に故人となられたので偲ぶ意味からお礼状を掲載します) 

 

 コロナ禍で暫く声出しが自粛がちでしたが今回は4人の応援団OBの協力で校歌をマスクしたまま声高らかに4番まで斉唱しエールで締めています。

 式次第が全て終了して会場を出る際には、入った時に迎えていただいた甲斐さん初めOBの方々がまた並んで見送りいただきました。甲斐さんにはサインのお礼を伝え、現役部員さんたちも並んでいたので前回3年前に逗子のコンサートに来た4年の第100代主将田邊雄大君にも挨拶してホテルを後にしました。腰痛もあり折り畳みの杖を持参しましたが参加して良かったと思いました。

 

 逗子には古賀政男さんの後輩でマンクラを指導されていた作曲家の故竹岡信幸さんの“みさを”奥様が住んでおられ一度訪問して壁に貼ってあった「赤城の子守歌」のポスターや「支那の夜」のレコードの原盤を見せていただきました。以前古賀政男音楽博物館を見学した際に竹岡信幸さんの顕彰盾も見ました。

     

 部屋にあった写真から奥様は旧姓“横田みさを”さんでマンクラ創部10周年にあたる1932年のロサンゼルスオリンピックの水泳選手(背泳ぎ日本記録)で宝塚を経て映画女優に転身の経歴の持ち主でした。

 

 またマンクラでコンサートマスターをつとめたS35年文卒の長沢和彦さんがおられた。若くして亡くなられましたが訃報を知ったのは私が長期出張していた台湾で休日に台湾北部にある金山のテレサテンの墓参りをして桃園の宿泊先に戻った晩の日本からの電話でした。同地でテレサテンの「時の流れに身をまかせ」を出向中のS君とカラオケで歌ったことも思い出し、今でもテレサテンの曲を聞くと長沢さんを連想します。

 

 

 今年6月29日(日)明治大学アカデミーホールで、東京都父母会連絡協議会による明大マンクラの「マンドリン鑑賞会」が開催されましたがアンコールのラストを飾ったのはテレサテンの「時の流れに身をまかせ」だったそうです。トランペットの演奏が、バラード調の演奏に厚みを増し“愛する人に温かく包まれ安堵する女心”を奏でているようでしたとのことです。東京都北部地区の皆さん、アンコールの選曲に感謝です。 

 無事「マンドリン鑑賞会」を終え安堵する役員一同(東京都北部地区ブログより)

 

 長沢夫妻は横須賀米ヶ浜に「ウタック弦」という店をもっておられ2度程行って歌ったことを思い出します。奥様は準会員として長く当支部活動に参加されご主人のマンクラの友人だった佐伯亮さんの話などされることもありました。今年6月4日(土)日本青年館ホールで開催された創部100周年記念演奏会(第190回定期演奏会)は案内が届き娘さんに付き添われて行きゲストの菅原洋一さんの歌も聞いてきましたと連絡がありました。

 故人になられたOBの奥様にも案内がいくとは! トアエ・モアの歌の文句を思い出して明治大学マンドリン倶楽部が100周年の後に“生まれ変わる”ために部員やOBが一丸とって努力して新しい倶楽部にしようとする思いを感じます。

 

 なお先に触れた創部80周年記念祝賀式(9月17日)の15日前の2002年9月2日は、当支部の創立10周年記念総会を葉山国際村国際会議場で開催した日でした。

 この、会議場の前の広いホワイエで懇親会を行いましたがマンクラOBの赤岩大輔君率いるメンバーにマンドリン演奏をしていただきました。以後幾度となく懇親会の時にお世話になり、100周年にあたり改めて厚くお礼申し上げるとともに写真を添えさせていただきます。

 

 逗子葉山のコンサートで今でも頭に残る演奏があります。あれは当支部創立10周年記念として平成14年4月27日葉山で開催したコンサートでした。- - - 18名の学生のうち女子が5名でしたが、その中の山中玲子さん(農学部4年)のギターソロが奏でる「影を慕いて」は古賀政男の身上とした優しさが伝わって来て心打つものがありました- - -と当時の記録に残されています。

                  

    また要望して地元開成学園ゆかりの「真白き富士の嶺」や当校友会役員2名の作詞作曲による「KAZEに吹かれて」を譜面を事前に渡し全員で演奏していただいたことも頭に印象深く残っています。(ホームページ会報バックナンバー第10号参照)

 

       素晴らしい「明治大学マンドリン倶楽部創部100周年記念祝賀会」

                              有難うございました。

          明治大学マンドリン倶楽部に乾杯!! 

                    古賀政男の「何でも弾いてやろう」の精神に乾杯!!

               

          2022年11月   支部長 足立泰秀(記)

延期した「納涼バーベキューの集い」を10月開催しました

 毎年8月第3土曜日は納涼と役員の慰労を兼ねて沼間の五霊神社裏の小高い所にある綾部副支部長宅の庭で「納涼バーベキューの集い」を行っていますが、コロナ禍で2年間中止となり今年も7月16日役員会時点では逗子市のコロナ感染者数が急速に増え始めたため延期と決めました。やはり3年続けて中止にはしたくないというのが役員の強い思いのあらわれでした。

 逗子市の感染者は7月最終の1週間合計で640人と発表され、8月第3週でも330人と高水準を続けていましたが9月10日役員会時点では149人となりましたので10月8日(土)に「納涼バーベキューの集い」を開催することに決めました。9月第4週には100人を切りコロナの不安は薄らいだのですが開催数日前から雨と急激な気温低下で当日の天候が心配されました。幸い当日は朝から好天で気温も上昇、風もなく元気を取り戻すための素晴らしい出合いの「バーベキューの集い」となりました。

 

 当日は11時~15時の時間帯で開催し参加者は足立、仲内、川﨑、中山、小川(幹)、根岸、鈴木(悟)、秋元、石渡、砂山、山村の各氏に毎年準備役の綾部夫妻、杉山夫人を加えて14名参加となりました。常連参加の西山、菅野両氏は故人となられ林、三武の両氏は入院中、柳生、杉山、鈴木達各氏は体調不良で欠席でした。

(3年前の8月の写真:西山・菅野、林・三武、柳生・日向・鈴木達の各氏も参加) 

 

 4月から再開している役員会に欠席もバーベキューには参加した役員が少なからずいたため飲食前11時から12時まで10月役員会を行い今後の行事予定について話し合っています。(内容省略)

 12時より支部長から3年振りの開催と綾部夫妻と杉山夫人への感謝を含む挨拶があり缶ビールで行事再開による出合いの楽しみに乾杯しました。出合いは何でも言い合える元です。あとバーベキュー料理(鮭のアルミホイール蒸し、焼き肉、トウモロコシ、ウインナー、ホタテ、茄子、カボチャ、五霊神社の銀杏等)が銘々の皿に盛られて出され、根岸さん持参の畑で採れた茗荷もあり日本酒やワインを飲みながらの飲食歓談となりました。焼き肉の追加が出され、焼きうどんも終わりごろ出て味わっています。

 

                (秋元会計幹事-中央黒髪 -の参加も今年の特色でした)

 

 今年は会場が綾部宅に移ってから8回目で、コロナで開催月と時間帯は変わりましたが場所、参加者、バーベキュー料理等内容はそれほど変わりませんが、やはり印象は3年振りもコロナ環境で3年以上年を取ったように見える役員もいました。また新年会や総会が中止のため残った酒の流用が無いことも頭に浮かびました。

 明大から総会の際に寄贈の日本酒「おお明治」や焼酎「独立自治」「権利自由」のいずれかがバーベキューの席に過去には必ずありましたが総会中止で見なくなって3年経ちました。それでも参加者から日本酒やワインの差入れはありました。

 歓談の中では飲食前の役員会で詰められなかった一泊忘年会や新年会会場について話があり、また今年は明大マンドリン倶楽部創部100周年でもあり記念式典参加の希望者募集や逗子でゲストに2度お呼びしたペギー葉山さんの話も出ていました。事務局に届いた横須賀地域支部主催のマンドリンコンサートについては準備をしていただいた綾部夫妻に参加してもらうことにしてチケットをお渡ししました。12月4日(日)の明早ラグビー対抗戦のチケット手配の話も改めて出て初の新国立競技場での観戦会になるので3年前(この2年コロナで観戦会中止)の参加者への案内について話が出ました。

 また3年前には冷たい豆腐を差入れいただいた船津名誉支部長や馬場さんの話も出ましたが共にこの2年間で故人んとなられました。 

   (写真左の百日紅は10月に入っても残花をほんの僅か付けていました)

 

 

 

 参加者全員の記念写真を撮り、皆でテント・テーブル・椅子を撤収し、後片付けをして綾部宅を後にしました。(冒頭の3年前の写真と比べてみて見て下さい)

 

 (高台の庭からは空気が澄み切っていたため良い眺めが花を添えてくれました)

 

 雨上がりでもあり山の木々や竹林、芝生の緑が色を濃くしていました。庭木や芝生も良く剪定されて入口には明治の小旗が立てられ客人を迎えるために準備されていたことが伺われました。

 なおその後多くの参加者が「すなっく舞」でのカラオケクラブ10月例会に参加しています。                    (文・足立、写真・鈴木悟

 

(追記)10月10日

 入院中で欠席と記した三武豊蔵さんが10月8日バーベキューの日の夜に入院先で亡くなられた訃報が翌日奥様から届きました。カラオケクラブの有力なメンバーで会場の

 ❝すなっく舞❞で結婚祝いをしたことが思い出されます。

 短歌「幾千代に」と木村岳風の漢詩「結婚祝詩」を西山隆治さんと菅野成一さんが朗詠してお祝いに花を添えましたが、ご両人とも故人となられてしまったのであの世で再開してまた朗詠の機会にめぐまれればとも思います。 (合掌)

明大ヨット部ファミリーデーに3年振りに参加・ヨットに乗船しました

 6月末にヨット部の2年マネージャー岡本雅弘君から明大ヨット部ファミリーデーを3年振りに8月7日(日)に行うとの連絡が砂山相談役に届きました。砂山さんはヨット部合宿所が9年前に竣工した時の支部長でヨット部との窓口になっていました。

 先に5月22日(日)湯島の東京ガーデンパレスで開催された2年遅れの明治大学体育会ヨット部創部80年記念式典後の祝賀会でも吉田監督から今年は開催予定ですと聞いていました。

 案内には参加者を7月10日までに申し込み、参加者枠は20名程度とあり、7月役員会では間に合わないため役員にメール・FAXで案内をしています。役員も高齢化し新型コロナ感染も収まっていない環境下、希望者は限られると思い、役員以外一部の会員にも案内を出しています。

 参加希望者はやはり集まらず砂山、林、綾部、鈴木悟、足立の5名で申し込みをして、開催が危ぶまれる中、7月31日に開催決定の連絡を岡本君から受けました。4年生は1年生の時に経験していますが3年生以下1年生まで1度もファミリーデーを経験していないため、地方から明大に進学したヨット部員にとってはまだ若い父母と葉山での一時を過ごす機会を奪われていたので開催が決定して本当に良かったと思いました。当日はその思いを目の当たりにしました。

 以下当日の記録です。支部会員のみならず参加された方も見て当日のことを思い出して記念にしてもらえれば幸いです。なお砂山さんは体調不良で不参加の連絡を2日前に受け、参加は4人となっていました。

 

 8月7日(日)は、ごろ合わせで「花の日」でしたので出かける前に向日葵マークの付いた白い帽子を被って家を出ました。このマークは法務省主唱の「社会を明るくする運動」のシンボルマークです。JR逗子駅バス停で林さんと待ち合わせで帽子の件を話しています。

 

 当日は朝少し雨が降っていましたが家を出る頃は止み、合宿所の最寄りバス停である鐙摺を下りたときは好天で風も無く日差しがまぶしく感じられました。バス停前の山側に昨年早稲田大学ヨット部の合宿所が新しく出来、初めて外観を見ました。

 

 受付9時にはまだ早かったので朝市を見学、ハヤマミルクソフトクリームを建物の中で座って味見しています。子供ずれの母親の仲間の方がかなりおられ相席でした。

  葉山朝市(左手から入って右手側の階段を上がるとすぐ明大ヨット部合宿所です)
 

 

 ファミリーデー会場の葉山港管理事務所前で綾部さんと会い、3階受付で会費2,000円と支部からの恒例の祝儀を渡し、当日の資料(部員の写真付き紹介と年間スケジュール・合宿所一日のスケジュール記載)を受理して席に着きました。鈴木悟さんは先に来ていました。

 

 なお受付横にはヨット部創部1940年を記したオリジナルのポロシャツの販売もしていました。部員は皆着ていましたが、逗葉の支部参加者は白いヨット部のポロシャツを持っていて着て来た人もいて今回はパスしました。 

1枚 2,500円 

 

 吉田優監督に会い持参した当支部の会報〝駿台逗子・葉山第41号(8月1日号)〝を20部程渡し監督コーチ4年生と3年生ぐらいには渡して下さいと伝えています。持参したのは2年延期したヨット部創部80年記念式典・祝賀会参加記事と吉田監督から寄稿してもらっていたためです。砂山さん不参加の件も伝えています。会報は横浜地域支部参加者の進林徳彦夫妻他1名と父母会(12名参加)の飯田純子会長にも渡しています。飯田会長には2部しかありませんが支部のホームページの会報バックナンバーに入れたので見て下さいと話したところ、ホームページとブログ見ていますとのことでした。

 

 ファミリーデーの運営は学生主体で監督は口を出していないようです。

 開会式は9:30~4年マネージャーの佐藤渚さんの司会で始まり、冨永祐大主将挨拶で自分は1年生の時の記憶がありますがコロナで2年間開催出来なかったので3年生以下は初めてですとの話がありました。

 

 4年生はヨットで出るため先に自己紹介がありました。4年生は来年卒業のため写真と名前を全員掲載しておきます。

 冨永祐大(高松商業)、今村紗栄副将(長崎工業)、池谷優希(浅野高)、

    河野剛大(明大中野)、佐藤新(明大中野)、古澤和也(明大中野)、

       八木栄樹(作新学院)、佐藤渚穎明館高・エイメイカン)

 

 

 その後黒板に名前が書かれたブロック分けでヨットに試乗となりました。1ブロック(足立、鈴木悟)、3ブロック(林、綾部)でゴムボートに乗る前にライフジャケットを着用しましたが、今回靴まで用意してありました。1ブロックの方々は2つのゴムボートに別れました。



 

 

 足立、鈴木悟の2名は3年伊藤優太君の操縦するゴムボートでしたが、宮城県から来られた夫婦とゴムボートで一緒でした。なんと沖で娘さんの操縦するヨットに移られたのです。葉山沖の海上で家族3人でのヨットでの一時は貴重な時間だったと思います。

 あとで配布資料を見て塩釜高校卒の3年安藤彩葵さんと判り、懇親会でたまたま安藤部員が来たので綾部さんと一緒に話をしています。名刺を渡したので夜メールがあり両親と鎌倉に行ったとのことでした。鈴木悟さんが撮ったヨットに移った家族3人の写真を返信メールで送りましたが、ご両親も見られ喜んでいた旨の返信がありました。

 

 また別のゴムボートに乗られた夫婦で沖で娘さんの操縦するヨットで葉山の海を満喫している状況が鈴木悟さんの写真にあり、確認したところ3年石塚春奈さんのご両親で千葉から来られたようです。

 

 他の写真もありました。家族2人でヨットを楽しまれています。会話は判りません

がファミリーデーが開催されて一生の良い思い出になったと思います。

 

 私(足立)は4年生古澤和也君の操縦するヨットで2人ゆっくり話すことが出来ました。やはりファミリーデーは1年生の時だったので校友会の人と話す機会が無かったので今回中止にならず良い思い出になったと言っていました。今年も多くの新人が入って良かった。体育系なので厳しい面もあるが良い雰囲気のクラブなので続けて欲しいとも言っていました。

 

 沖で再びゴムボートに移り戻りましたが途中、葉山町消防本部のレスキューボートに出合いました。部員は当然ヨット練習中に仲間のこのレスキューボートで見守られているわけですが、以前葉山ライフセービングクラブが大学ヨット部向けに水難救済会葉山支部横須賀海上保安部警備救難課と協力して「救命救急講習会」を行った話を聞いたことを思い出し、葉山の海が学生たちに恵まれていることを実感しました。 

 

 ヨット試乗後は合宿所見学をしました。前回屋上でのバーベキューは今回していませんでしたので裏方の下級生との会話はありませんでしたが、ミーティングルームには会場に運ぶ食べ物が準備されていました。

     (明治大学ヨット部合宿所屋上から・正面の茶色の建物が会場)

 懇親会は13:30~で懇親会から参加の方もおられました。吉田監督挨拶、1年生から3年生の順に自己紹介がありました。出身校の所で前回まで〝名門〟と声掛けしていたのですが4年生自己紹介の時はコロナで声出しして良いか迷い止めましたが、やはり学生の為にもとの思いがあって前林さんと話しマスクしたまま〝名門〟と声掛けをしました。

 

 コロナ感染配慮で懇親会では部員家族の方の席に行って会話は控えましたが、長崎、香川、和歌山、三重、愛知、岐阜、新潟、宮城各県の高校出身の部員もいて遠方から来られた家族も多くおられたのではと思います。

 もし家族でヨットに乗られている写真がありましたらこのブログに掲載したいと思います。2年岡本マネージャー経由で写真と名前を送付で申出下さい。

 

 また鈴木悟さんから次の話もありました。懇親会で右席の小松原さんと色々お話できました。ご本人は明治大学院生の母ですが、院生の母は父母会卒業だそうで席は父母会席ではなく私の横だったようです。部員の練習日には必ず葉山港に来て、赤い灯台から「明治がんばれ」と声援しているそうで、部員の方々から感謝されていました。会報を差し上げましたが、年間計画にあるラグビー箱根駅伝など熱く応援に行っているそうです。逗葉支部に入会をお勧めしましたが、本人は明治ではないとのことでした。

    (真ん中の方が小松原さん・部員の顔から昵懇の様子が伝わってきます)

 

 飲食後に校友会から進林さん、父母会から飯田さんの閉会挨拶があり、その後集合写真撮影をして終了となりました。(今の時代はスマホで簡単に写真が撮れるので撮る人は依頼されて何度もシャッターを押しています。海上の写真も多いと思います。)

 当日参加者は部員39名、部員家族20名程、東部地区父母会12名、横浜地域

支部3名、逗子葉山地域支部4名、監督を入れて80名程だったと思います。 

 

 葉山に合宿所があるため、やはり地元高校出身者には応援したくなるのは人情なので前回、前々回は逗子開成高校卒の武井翔太朗君がいましたが当然卒業し、今年は聖和学院高校卒の2年生桒野明日佳さんがいました。開成高校と違い聖和学院高校ではヨットでの先輩はいないと思うので会って激励しようと思ったのですが昼間練習で海に出て当日は会えませんでした。安藤さんの話では10日に練習で会うとのことでしたので用意していた「海のてぬぐい」に名刺を入れて桒野さんに渡してくれるよう預けています。

          (逗子市観光協会が販売の海のてぬぐい) 

 10日夕方本人より「海のてぬぐい  ずし」のお礼の電話がありました。立派な合宿所があり吉田監督に勧められ明大に進学ヨット部に入ったと言っていました。葉山で小さい時からヨットに乗っていた様で今後の活躍を祈っています。

 

 昨年早稲田大学ヨット部の合宿所が葉山に竣工、三浦市の三戸浜から拠点を移しましたが、地元の若い高校生が明治の活躍を見て明大に入ってくれることを願っています。

 帰路、鈴木悟さんは自転車のため会場建物の前で別れ、綾部さんは歩き、林・足立は鐙摺バス停から乗車。なかなか進まず横浜地域支部の方々他が先に歩いて行くのが車中から見えました。

                       (足立:文・鈴木悟:写真)

大塚初重明治大学名誉教授の訃報を知って

 令和4年7月23日の読売新聞朝刊で大塚初重さんが21日肺炎により95歳で亡くなった記事を見ました。

 日本考古学会協会長を歴任された考古学界の重鎮で、東京生まれで専門は弥生、古墳時代。私が小学校の頃習った静岡県登呂遺跡の戦後初めての大規模な発掘調査に参加されておられたことや、その後の東日本の古墳を中心に数多くの発掘を手掛けられたことも紹介されてありました。一時期考古学ブームを引っ張り平成19年には五木寛之さんとの共著「弱き物の生き方」で戦時中に海軍軍人として乗った船が撃沈されて九死に一生を得た体験を明かされたことも記事にありました。

 当校友会会員に葉山に住む古要祐慶先輩(S34年文卒、S36年政経卒)がおられましたが、文学部在籍中は大塚初重さんの後輩で、長柄桜山古墳が発見された時は、大塚さんに情報をいち早く報告されていたそうです。平成17年のカンティーナで開催した当支部総会の折には「長柄桜山古墳群について」と題して古要さんに記念講演をお願いし、当日は発見者でもある東家洋之介さんも参加され補足説明をしていただきました。古要さんは湘南考古学同好会に入っておられ機関誌の会報に「前方後円墳の起源を求めて」等の題名で幾度か投稿され、この会報は私にも送られてきていました。

 振り返ると、この平地の少ない逗子葉山の地に前方後円墳に納められる大王が存在していたこと自体、発見当時は大変な出来事で、大塚初重教授や古要祐慶先輩を連想して記憶に鮮明に残っています。古い出来事ではありますが明大の仲間と古墳について語った記録があるので付して大塚初重さんを偲びたいと思います。 合掌。



長柄・桜山古墳のこと

 

魏々タリ蕩々タリ、観世音菩薩欣仰 日ニ合掌怠ラザル所、慈愛及ビテ逗葉ノ地ニ達シ紫雲棚引ク中ニ前方後円墳現出ノ奇瑞ヲ垂レ給フ、有難キ哉 伏シテ願ハクバ普ク八紘ニ余光輝ヤカセテ昔日ノ栄華ヲ万人ニ及ボシメ給ハン事ヲ 即チ未ダ仏心有ル無キ輩、一紙半銭ノ古墳供養ヲ奉リテ庵主ノ仏恩ニアヤカラレヨ

 

朝茶 長柄・桜山古墳奉讃席

と き 平成十二年七月三十日(日) 午前三時

ところ 逗子高畠 仙六洞(亀ヶ岡八幡宮ヨコ入ル)

かいひ 三百円

勝手乍ら前日正午迄にご来駕の趣お申し越し下さい   

奉行 足立游庵

 

これは逗葉駿台会茶友の記録の一齣である。朝の空が白む前のわずかな時、茶友が斜門破屋の我家を訪れた。玄関前には信州武石村(吉岡恒樹さんの山荘のある青木村は丸子温泉をはさんで山一つ北側にある)にある日本唯一の「ともし火博物館」で買った燭台に火をともし、席には明治大学に来由する幾多の物を出しておいた。床の間には三木武夫を総理に押した椎名裁定でしられる椎名悦三郎の書「風吹不動天辺月」を掛け、床柱には石川裕昭さんの叙勲祝いの花入れに紫紺の朝顔を生け、その下に馬場香澄さんから頂いた鎌倉彫の書状入れに古要祐慶さんからの古墳に関する手紙を添えて出しておいた。白い風炉先には桜井清志さん撮影の我家で花開いた桜山古墳の黒蘭の写真を無造作に貼り付けておいた。

平成11年3月、長柄・桜山古墳が発見された。4月小林三郎明大教授が調査に訪れ、7月大塚初重明大名誉教授も来逗。9月の逗子市広報では県内最大級の前方後円墳であることが報告されている。平成12年1月古墳見学会が梅沢重昭群馬大名誉教授(明大卒)を講師に実施され、10月7日には大塚初重明大名誉教授の古墳発見記念講演が葉山町福祉会館で開催されることになった。古墳発見者の東家洋之助さんに入場券を5枚依頼し記憶が定かではないが吉田、石渡(璋)、森、砂山さんたちと聞きにいった。東家さんに親しい古要祐慶さんは明大考古学専攻で大塚初重さんの後輩にあたり長柄・桜山古墳のことを詳細に伝えておられた。古要さんの話では明大考古学の生みの親である後藤守一氏は明治22年8月に逗子の小坪で生まれたとの情報を得て小坪寺まで調べに行ったことがあるが確認はできなかった。しかし明治大学の考古学の仲間がこの逗葉地区に結集しているのは事実であり、逗子葉山の議員に古墳への関心が高まり新しい町おこしとして具体的に活動に入っているようだ。森英二幹事長夫人もその1人として加わっている。桜山古墳のある場所が幹事の石渡俊雄さんの土地の一部に入っているのもやはり明治の校友会としては関心を持たざるを得ないので平成15年総会の時は東家さんに記念講演を依頼したが日程上実現されなかった。別の機会に是非呼んで話を聞きたいと思っている。会員の幾人かは以前青森県三内丸山古墳に立ったこともあり、逗葉支部のこれからの10年はこの古墳がキーワードになるような気がする。

茶の席ではロマンが花開く。広い農地を持たない逗葉の地に大王の墳墓があるということはこの地が交通の重要な要所であったことが推察される。大塚初重氏が富山県氷見市前方後円墳との類似を指摘され古墳の築造者が海運に関わる豪族であった可能性を示唆されているため4世紀後半の築造された船の仕様やどのように大和まで行ったのか、行き帰りに何を積んでいったのか、大和以外にも行き先はあったのではなどとロマンが膨らむなか空が明るくなり散会となったのです。

                         逗子高畠仙六洞 庵主

故船津孝二郎名誉支部長と地域貢献奉仕活動

 当校友会支部の2代目支部長で名誉支部長だった船津孝二郎先輩が昨年1月24日に亡くなって1年を迎えようとしている。この1年新型コロナウイルスの感染拡大の影響で支部行事が出来なかったこともあり、時の経つのがあっという間の気がする。

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 船津さんは1昨年7月27日に亡くなった森 英二先輩と当支部を創立した立役者だったので、このブログに何か投稿しなくてはと思っていたが、思い出が多すぎて投稿しないまま今日を迎えてしまった。17日に阪神大震災27年のニュースを聞き、今年支部創立30周年を迎えるのでそういえば支部が出来て3年目の1月に大震災が起こったことが思い出された。平成7年2月4日(土)支部の初めての新年会を東逗子にある「風来まつなが」で行ったが、この時に災害があった明大校友会兵庫県支部義援金を贈る話が出て、当時兵庫県支部が機能出来なくなっていたので大阪府支部に5万円を贈り、以後大阪府支部から会報が送られてきたりして暫く当支部と交流があった。

 

 船津さんは支部創立当時、既に長く逗子ロータリークラブの会員でボランティア精神旺盛なロータリアンだったし、一方葉山町会議員だった森 英二さんも奥様と共に長年葉山の子供たちを引き連れて草津へスキーに行くなどボランティア精神を強く持った方だった。森夫妻はロータリークラブの依頼を受けて自宅にアメリカやオーストラリアの留学生を受け入れホスト役をされていた。従って当支部設立の目的には、①明治大学行事への参加支援 ②地元明大卒業生の懇親 ③地域社会貢献という3つの目的があるが、地域社会貢献を重視して発足したと思う。 

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 船津さんは終戦を12歳で迎えたので、戦前生まれでも10歳離れた私と違って、学童疎開等戦争体験の記憶がはっきり有り、大学まで行かせてもらい今日有るのは社会のおかげで、恩返しのため地元に奉仕したいとの思いが強かったように思う。この30年の当支部の活動を振り返るとその思いを強くする。昭和42年卒の私にとっても戦争の記憶は無いが経済成長の製造業激動期のなか休日もなくひたすら社会貢献の名のもとに企業戦士として働かされたので校友会は息抜きの場でも、地域貢献は当り前だった。 

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    (明大校友会逗葉支部ができ逗葉稲門会新年会に大勢招かれ参加)

 

 数多く開催した明治大学マンドリン倶楽部コンサートの目的は、高齢者や若者にも地元にいて学生の真摯な演奏を聞いてもらい元気づけと、チャリティーで集めたお金を地元福祉団体に寄付することで当然準備を通じて会員の増強結束を図ることだった。準備は大変だったが喜んで頂いた反応に仕事上とは違う達成感を感じて続けてきた。

 最初の頃は事務局だった後輩の大川謙一さんが頑張ってくれましたが、逗子葉山の演奏会場は500人ほどしか観客が入れないため学生に昼夜2度公演をお願いした。それでも赤字か又はならない程度だったが船津さんの縁でチャリティーへの協賛をお願いして寄付金を増やすことができるようになった。葉山での協賛は宮澤恒夫先輩、同期の広瀬敏夫さんの尽力があった。飲食店等は役員他が自腹で利用,また病院は役員や明大関係者が利用しているので少しは還元できているかなと思うが、利用していない企業からの協賛については本当に有難いと感謝している。

 地元以外で阪神大震災東日本大震災西日本豪雨災害等が発生し、チャリティー先がこれらの対象地域になったが被害の甚大さから地元企業のご理解を得られたと思う。

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 〈第1回明大マンドリン倶楽部チャリティーコンサート・逗子開成学園記念講堂)

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(明大マンドリン倶楽部チャリティーコンサート・ゲストにペギー葉山さんを迎えて) 

 

 支部草創期から大貫宏初代支部長と杉山建雄先輩他の方たちが全国大会に参加し、逗子葉山をPRをして支部創立10周年の際は各地の支部から祝電をいただいたこともあったが、やはり会話で終わっているので逗子葉山PRには一考が必要だった。

 支部創立10年目に船津さんの掛け声で会報「駿台逗子・葉山」を発行した。逗子市は古都鎌倉市御用邸のある葉山町に挟まれ全国的に知名度は低い。当支部は以前逗葉支部と称していたが逗子市が判りにくいのに逗葉ではなおさら判らないということで逗子葉山支部に変更した経緯もある。船津さんはともかく逗子市を全国区にしたいとの思いで会報を全国支部に送ろうと発案、役員も同意で宛名書きは墨書でということで書道クラブの故黒澤渓、牛久順之、日向 強の先輩たちと私が担当した。

 全国には今も都道府県支部に韓国支部、台湾支部を入れ35支部がありその管下に地域支部が223支部あるので当時大学関係にも送ったので全部で270通ほどの封筒に宛名書きをしたことになる。既に会報を全国に送るのを止めているが毎年どこかの都市で開催される明治大学全国校友大会の際は会報を持参して配ることもあった。当支部の役員が高齢化しているのと同様他支部も同じで、以前逗子葉山地域支部から会報が送られていたことを覚えている人もまだ僅か残っていると思う。一時期遠方の支部から会報が送られてきたこともあり、当支部の会報が参考になったとの添書きもあった。

 会報には石渡璋典先輩が地元名所紹介や郷土の文豪徳富蘆花の記事、又私が郷土の文豪泉鏡花の記事を掲載したりしたが愛媛県今治地域支部の方から徳富蘆花今治市の郷土の文豪ですとの連絡が入ったこともあった。韓国や台湾の方からは丁寧な会報送付のお礼状をもらい全国大会で会って挨拶したこともあった。全国にいる明大OBに逗子市からの会報各2通送付で認知されたとは思わないが船津さんの意を受けて幾分かは逗子市PR に貢献できたかなとは思いたい。一定期間送ったことと会報代と郵送代の件もあり中止となった。 

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     (全国校友栃木大会で村山富市校友会名誉会長・元総理と)

 

 高齢者のボケ防止に麻雀が良いということで、当支部の麻雀クラブが中心となって、日本麻雀連盟逗子葉山支部を作ったこともある。連盟の総裁は経団連会長だったりして国内唯一段位を発行している組織で石川六郎総裁が死去して後、代表の石本洋一理事長を迎え逗子魚勝で発足式を行い、その後逗子市商工会館で4回健康麻雀大会を実施した。第1回目は逗子葉山及び一部近隣から25卓の100名参加となった。麻雀に参加せず集計役手伝いの方もいたので良く集まったと石本理事長が感心して言われた。

 健康麻雀なので賭けない、吸わない、飲まないは当然だったがアルシーアールルールだったことから2回目から4回目まで参加者が減り続け、5回目も計画したが大会成立の人数が集まらず結果として日本麻雀連盟逗子葉山支部は解散した。コロナ禍で休んでいるが参加された女性の方が逗子小裏の自宅で当時の麻雀台を使い仲間と健康麻巣をされている。ハイランドでも女性の方が仲間と自宅でされているとのことで麻雀をボケ防止として良い遊びに高めたかなとの思いもある。 

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  (逗子魚勝での日本麻雀連盟逗子葉山支部発足式・中央石本洋一理事長)

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     (手前右の赤い服の女性は今も自宅で健康麻雀をされている)

 

 当支部の会報創刊号に故吉田功先輩の「逗葉支部基金創設」の記事がある。これは船津さんの考えにあった地元青少年育英のための基金作りで、地域奉仕活動の一環として有志会員からの寄付や行事等の剰余金の一部を積立て地域に還元しようとの意図でした。基金作りはできませんでしたが有志団体として「逗子葉山地域青少年育英会」は発足させ、明大校友会は私的団体とみなされるため公的場所の見学会(陸上自衛隊ヘリコプター搭乗会等)に使用したり、また青少年育成に将棋が良いとの思いと逗子開成の生徒さんが将棋が強いとの情報を得て日本将棋連盟逗子葉山支部を作ったこともありました。これは会員の河原 久先輩が大内延介九段に習われていた縁もありましたが、将棋大会の企画が地元将棋グループとの合意が得られず形だけの3年の継続で終わりました。 

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   (搭乗したジャンボヘリは東日本大震災の際に活躍されたとのこと)

 

f:id:meijizuyou:20220118141542j:plain    (千登世2階で日本将棋連盟逗子葉山支部設立前夜の顔合せ・中央は大内延介九段)

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   また逗子ロータリークラブ主催で次世代育成チャリティー寄席として大学落語研究会を呼んだときは趣旨から全面的に支部も協力した。明大、中大、青山大、慶大4校が逗子文化プラザで落語を披露してくれましたが4校のまとめ役は明大落研でした。

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 (緑の着物姿は大学落語選手権で2位となった明大の駿河炎誌こと小田中裕士君・

                     現在 立川流二つ目の立川がじら) 

 

 船津さんは一方仕事の一線を離れた70歳以上の方を対象とする「燦燦会」という会をつくり、この方たちに楽しみを与えることもされていました。ロータリークラブの元会員やこれと思った方に声掛けしてしていたようですが、何時からか70歳以上の制約はなくなり若手のロータリークラブ会員も参加するようになりました。この会の会員には一時当支部会員が6名程参加し、燦燦会会員ではない仲内俊之、山村博輝の両先輩が手伝いで参加し、私も2度程手伝ったことがありました。地元で名のある方が多く、自分より若いOBにこういう方との面識の機会を作り今後の校友会に+になればと思われてのことだったと思います。当支部総会の記念講演に講師としてお呼びした方もおられました。

 

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             (総会講師の石井照周氏)

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                (総会講師の山科 誠氏)

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              (総会講演の渡邊貞雄氏)

 

 船津さんの縁で特に逗子市内のイベントについては、 逗子海岸花火大会寄付、太陽の塔建設時寄付、逗子スプラッシュウオーターパーク2015寄付、逗子海岸へレスコボール体験会2019寄付などを一部船津先輩個人支払いもありましたが明治大学校友会逗子葉山地域支部名で行っています。また泉鏡花の養女で山の根に住む泉名月さんが明大卒だったので船津さん提案で泉鏡花写真展に協力したりもしました。

 この写真展は逗子文化プラザが出来る際にイベントの受け皿として船津さん達が立ち上げた「NPO法人パートナーズ逗子(事務局長 砂山 昇先輩)」の主催でしたが泉名月さんの縁で当支部も全面的に支援しています。写真展終了後に記録を作り、同志社大学の先生方や昭和女子大学の先生、逗子市図書館、金沢の泉鏡花記念館、横浜の神奈川県立近代博物館等にも寄贈しました。

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      太陽の塔建設時寄付銘板。左は燦燦会会員の石井照周さん。建設時に

   船津さんの推薦で川﨑仁久先輩が逗子市観光協会事務局長でいて尽力された)

 

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   (逗子文化プラザギャラリーでの 泉鏡花“逗子ロマン時代”写真展の初日)

 

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     泉鏡花記念館と神奈川県立文学館から届いたお礼状・

    共に「大切に保管し末長く活用させて頂きたく存じます」と記されていた)

 

 

 また明治大学の教壇にも立ち葉山の自宅で亡くなった岡田朝太郎(東京帝国大学法科教授で草創期の日中友好の功労者であると共に三面子として川柳界の功労者でもあった)の孫の方から依頼されて船津さんの後押しもあり顕彰碑建立に尽力したこともありました。これらも明治大学と逗子市のPRに幾分なったのかなと思っています。 

  なお建立にあたって日本中国友好協会名誉会長の平山郁夫さんからも名前記載でご了解をいただいています。細野朝洋先輩の実家が平山さんと同じ瀬戸内海生口島瀬戸田である縁でお兄さん経由で文化財保護芸術研究助成財団事務局次長の村木茂様を紹介いただき、村木様より平山様の了解をいただいた返事がありました。

 なお平山郁夫さんの恩師は岐阜県中津川出身の前田青邨氏ですが、バスで行った全国校友石川大会の帰りに長野善光寺に寄り船津さんの父親が寄進した前田青邨他2名の恊作である大きな青銅の灯籠を見たことも思い出します。船津さんとは全国校友広島大会でも一緒で瀬戸田も訪問しました。ちなみにこの顕彰碑は岐阜県中津川にある㈱岩本で作られています。

        

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                       (岡田朝太郎 顕彰碑・裏面)

 

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     瀬戸田の細野先輩の実家訪問・船津さんの右が細野さんの実兄松本 彪さんで

     平山郁夫美術館の平山助成館長<郁夫さん実弟>と昵懇の中でした。)

 

 当校友会の発信で地元のブランドの焼酎「蘆花」を作ろうとして熊本の蔵元を訪問したり、明大グッズの浴衣を作り全国の明大関係者に販売出来たらとの思いでデザインまで作ったこともありました。これらも考えてみれば実現していれば逗子市を全国区にする一つの手段だったのかなと思いますが、校友会活動とかなり掛け離れていた感があり、ダメモトの船津さんの考えでした。マンドリンコンサートにペギー葉山さんを2度出演いただきましたが、それ以外にも大物歌手をゲストに招こうと船津さんに言われ砂山 昇先輩が尽力されたことも思い出します。

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             (熊本の蔵元瑞鷹を訪問)

 

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 なお瑞鷹に行く前に、熊本県支部の野上禮之助支部長他の方と懇親会を持ち、その際

熊本は徳富蘆花の出身地でもあり、逗子の郷土史である「随筆 藻塩草( 逗子の今昔) 」明大Ⅿ34年法学部卒 藤原楚水著)を贈呈した。

 

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  (浴衣のデザインは竹の葉っぱがトンボと明大のシンボルマークになっていた)

 

 20年程前に白石幸子先輩の要請を船津さんが受けて私に保護司への依頼があり理解もないまま了解して昨年3月定年で退任しましたが、これも当地区の対象者の更生、社会復帰に少しは貢献できたのかなと思いたい。逗葉地区保護司会としても「社会を明るくする運動」を通じて、逗子葉山の各種団体役員の方々と面識を得ることになり、これが船津先輩に大いに感謝すべきことかなと思っています。

 

 船津さんが企画したバス旅行や一緒に行った全国校友大会他、会員の親睦を目的とした各種行事については今回記事を省いています。機会があればまた別に投稿したいと思っていますが、家族や子供参加の地引網の集い・餅つき大会、また大勢参加のお花見会・納涼バーベキュー大会、全国校友大会・バス旅行の写真を付記しておきます。世代も変わりまたウイズコロナを念頭に暫く親睦最優先で活動を工夫し休んだり再開したりする時かなと思います。f:id:meijizuyou:20220118205026j:plain

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亡くなった後、船津孝二郎さんを知る明大関係者以外の燦燦会会員で当支部の忘年麻雀大会参加常連のⅯ氏から「心優しい、大きな方でした」との言葉をいただいています。                         

                          ( 支部長 足立泰秀記 )                          

故 森 英二さんを偲ぶ(全国校友栃木大会と北関東の旅) 

*以下の記事と写真は、かって森 英二さんが作成していたgooブログの記事です。

   ---森 英二さんを偲び hatenaブログに復元再録します---

  平成18年(2006年)9月24日(日)~26日(火)のバス旅行でした

    9月24日(日) 全国校友栃木大会 於:ホテル東日本宇都宮

    9月25日(月)~26日(火)北関東の旅 

 

(24日)

25人乗りサロンバスにていざ出発!!

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先輩・村山元総理の挨拶 いつまでも元気です。

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(右から)青木信樹会長と来賓の村山元総理・長吉 泉理事長 ・ 納谷廣美学長

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壇上に勢揃いの我が同志 ・12名

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1,500名の大合唱「おお!明治」が3番まで響き渡る

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(25日)ビジネスH サンホテル宇都宮 出発

大笹牧場でのんびりとひと時

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霧降の滝

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世界遺産:日光・東照宮  修学旅行が懐かしい!

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華厳の滝 いつ見ても迫力満点! 水量も多かったみたい

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戦場ヶ原:人間の戦場ではありません、では・・・

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(26日)

日光湯本温泉 釜屋旅館 玄関

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 中禅寺湖の領有を巡って、赤城山の化身ムカデの大群と男体山(二荒山)の化身ヘビの大群が、刺したり噛んだり、絡み合って戦った。ヘビ軍団がムカデ群を見ると2本の角を持つ大ムカデがいた。敵の大将と見てその左目を狙って矢を放つと見事に的中、ムカデ群は撤退し、二荒山の勝利に終わった。

という「神話」の世界に登場する標高1,400m・広さ400ヘクタールの大湿原。

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吹割の滝: 今回の旅は別名・滝めぐりツアー?

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榛名湖:船津支部長の18番・「湖畔の宿」が聞かれるのを皆楽しみにしていたが・・・  

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牛久先輩の案内による記念公園でオルゴールに耳を傾けました

水沢観音:

昼食はお替わり自由の名物「水沢うどん」・うどんの他も大いにお替りして盛り上がり!

 

達磨寺:

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 今回の旅は達磨寺の見学で終わり! 全員無事に一路懐かしの逗子へ! 

お疲れ様でした。

今回、足立さん作の横断幕は大いに明治と逗子葉山をPRしてくれました。